本書は超短篇集である。超短篇といえば、ほんの数ページ――時には数行――の間に展開する短篇だが、超短篇を書くには、長篇はもちろん、一般的な長さの短篇を書くのとも違ったセンスが必要だ、と思う。超短篇集として推しに推したいバリー・ユアグローの『一人の男が飛行機から飛び降りる』(新潮社)はいい例で、そこに納められた超短篇にあらすじらしいあらすじがあるものは稀である。「賭けをした男が牛の体内にもぐり込む」「二人の娘が大きな水槽にとじ込められている」といった印象的、かつ「なんだって??」と読者を困惑させるような一行で始まる彼の超短篇は、まさに朝になれば覚えていない夢のようだ。覚えていないので書けないはずのものをなぜか書けてしまった、といったふうなのだ。これらのナンセンスでブラックな短篇群はバリー・ユアグローにしか書けない。逆に言えば、彼の短篇はバリー・ユアグローにしか持ちえないセンスそのものである。
さて、話を本書「戦時の愛」に戻そう。ここに収められた七十五の短篇は、短いもので数行、長いものでも五、六ページ程度だ。そのごくごく短い中に炸裂する作者マシュー・シャープのセンスとはどのようなものだろうか?
これがなかなかに幅広い。たとえば、もう本当にナンセンスとしか言いようがないような、わずか五行の「マジで」。これはあれやこれや言葉を費やして説明するよりも実際に読んで「なんですって?」という気持ちを味わってもらった方が早いだろう。それから「王」。「なんでこんないい奴が、こんなことになるのか」という最初の一行から何やら不穏な雰囲気を漂わせながら、「いやなんでだよ!」とツッコミを入れざるを得なくなる展開を見せる。このあたりはもう「考えるな、感じろ!」の域である。眼前に繰り広げられる突拍子もない光景に、ただただ翻弄されてしまう。
しかしたとえば「どこでもない」の、どこか淡々とした一人称の語りによって描かれるもの。「ようやく(Ⅱ)」の、体の真ん中に鋼鉄の竿がのびている男とピアスだらけの女の出会い。「雪」の、二人の男女のかみあわない会話。それらはいつかどこかで誰かが見た夢の断片のようでありながら、夢というものが時としてそうであるように、薄い膜の下にもう一つのすじの通った物語を隠してはいないだろうか。もう一度、このごく短い文章を読み返してみたら、それが見えてくるのではないだろうか。考えて、考えたら、その物語を理解することが私たちにはできるのではないだろうか。そう思わせる短篇をも、マシュー・シャープは書いているのだ。
わけのわからない悪夢から、目を凝らせば解釈が可能な夢まで。「考えるな、感じろ!」から「考えて、考えろ」まで。いろいろな顔を見せてくれるマシュー・シャープの幅広いセンスが詰め込まれた一冊である。
河出真美(梅田蔦屋書店)