日本のものづくりの素晴らしさを伝えるSWITCH ONLINE連載「CREATION SWITCH」。
Vol.1は「Tシャツ」です。
プロローグ 日本のTシャツ物語のはじまり
Tシャツは私たちの生活に深く根ざしていて、定番のファッションアイテムであると同時に日用品でもあります。そんな当たり前のことの起源を掘り下げていくと、東京下町のとある会社にたどり着きます。会社の名前は久米繊維工業株式会社。本社の従業員はわずか8名ながら、直営工場の磨き上げられた職人の方々とともに素材の選定、縫製、裁断、仕上げ、検品、プリントまでをすべて自社で一貫して行いTシャツを作る、日本では稀有な国産Tシャツメーカーです。
まだ「Tシャツ」という言葉が浸透していなかった1950年代に、「日本でしか作り得ないTシャツを作る」という夢を抱いた一人の映画少年から、すべての物語ははじまります。
久米繊維工業株式会社の歴史
1950年代、戦後雪崩のように列島へ押し寄せたアメリカン・カルチャー。特に映画は後の久米繊維二代目会長となる久米信市少年の心を強く揺り動かしました。マーロン・ブランドやジェームズ・ディーンといった銀幕の向こうのハリウッドスター、またはたくましい進駐軍人がトラックで走り去っていくそのTシャツ姿に憧れた彼によって日本初の「国産Tシャツ」は産声を上げます。
久米繊維工業は初代・久米才市さん(二代目信市の父)が現在の墨田区にあたる東京本所石原町でメリヤス肌着を作る町工場として1935年にスタートしました(メリヤスとはニット製品の古い呼び名)。本所の工場は1942年に起きた東京大空襲の被害を受け、一時休業を余儀なくされるも、すぐに営業を再開させ、現在の久米繊維工業の礎となります。
1950年代半ばから二代目久米信市さんは弟の利男さんとともにTシャツ開発へと勤しみます。しかし、当時肌着は文字通りインナーとしての役割に過ぎず、アウターとして1枚で外を出歩くことが文化として日本には根付いていない時代でした。それでも二人の兄弟は生地・型紙・色・縫製を試行錯誤し、日本人が気軽に着られるよう工夫を重ねて行きました。そしてついに生まれた1枚の国産Tシャツは「色丸首」(色のついた丸首のTシャツという意味)と名付けられ、12色のカラーバリエーションを用意し、当時の繊維中心地、日本橋横山町の問屋を回り販売していき、徐々にその認知度を高めていきました。
70年代に入ると多くの国産ブランドが誕生し、久米繊維工業のOEM(受注生産)商売も軌道に乗ります。唯一無二の品質を維持し製造・供給を続ける久米繊維工業は、日本随一のTシャツメーカーとしての地位を確立させました。
100年後の未来へ
そして現在、自社オリジナルの国産生地を用い、裁断、縫製、検品、仕上げ、そしてプリントまですべてのTシャツの製造工程を一貫して行う稀有な会社として、久米繊維工業は東京都墨田区錦糸町に本社を構えます。本社ビルの1階には久米繊維のTシャツを販売する直営店「ファクトリーショップ」があります。10階建のビルに従業員はわずか8名。千葉と埼玉のグループ工場では熟練の職人がその技術を今日も磨きます。有機栽培のオーガニックコットンをはじめとして天然素材である綿への徹底したこだわり、環境配慮型電力(カーボンオフセット)の採用。繊維製品の国内生産比率が3%を切るという現代に、すべては100年後の未来の子どもたちにも国産Tシャツを繋げるために。東京オリンピックを控えた今、日本のものづくりを世界へと発信していく時代へ。本ページでは久米繊維工業が作る国産Tシャツの素晴らしさ、ものづくりの大切さを、久米社長と久米常務、そして社員の方々へのインタビューを通して紐解いていきます。
<目次>
第2回 究極のTシャツ――色丸首を語る(前編)(10月22日公開)
第3回 究極のTシャツ――色丸首を語る(後編)(10月23日公開)
第4回 表現者を”着る”ということ――「北斎プロジェクト」(10月24日公開)
第5回 Tシャツを着て飲む酒は「ヤレタノシ ヤレウマシ」 ――日本酒Tシャツ『蔵印』(10月25日公開)
第6回 久米繊維がTシャツを作り続ける理由(10月26日公開)
第7回 ファクトリーショップへようこそ!(10月29日公開)