豊かな自然と多くの文化遺産を持つ、東地中海に浮かぶキプロス島をアーティストの高濱浩子はある特別な思いをもって旅をした。キプロスを知るきっかけは、子どもの頃に父親からもらった切手の絵だった。
「Coyote No.68」に収録のトラベローグ「キプロスへ」の未掲載原稿も含めた完全版を公開。
写真: 畠山浩史
協力:キプロス観光政務官組織
プロローグ
私の父は神戸で貿易商を営んでいました。
先祖から引継いだ文房具店の奥にあった小さな部屋を事務所にして。小さな貿易商だったけど、そこから世界中の国へ繋がっていました。父はいつも咳払いをしていて、背広にネクタイ姿でした。机の上には英国製のタイプライターが置かれていて、壁に取り付けられた棚にはレースやボタンの見本が段ボールに入れられ並んでいました。段ボールの側面には黒いマジックで輸出先の国の名前が筆記体で書かれていました。父は筆記体を好みました。
父の日課は、外国にいるバイヤーから手紙が届いていないか、神戸中央郵便局私書箱1284番に確認に行くことでした。1970年代は今と違って仕事のやり取りも国際郵便だったからです。中央郵便局の私書箱室はセピア色の扉で、私は石造りの階段の横にあるスロープで、上がったり下りたりしながら父を待ちました。大人の部屋から出てくる父は、いつも美しい切手が貼られた封筒を握っていました。事務所に帰ると、中の書類だけを抜き取り、切手がついた封筒を私に「はい」と渡してくれました。
私は父がタイプライターを打つカチャカチャチンという音が大好きでした。その横で封筒を水に浸し、切手が剥がれるのを待ちました。時々私もタイプライターを出してきて、薄い紙をゴリゴリと巻き上げて、黒い鍵盤をパチパチと打って、絵を描くように文字を端まで並べて、チンと鳴らして遊びました。「ひろこちゃん、壊したらあかんで」と注意されたけど、だいたい大目に見てくれました。切手がパラパラと封筒から離れて、水に浮かび始めると、次は鏡に貼りつけて乾かします。その鏡はうっとりするような、知らない世界ばかりでした。
その中に、どうしても気になる切手がありました。真っ青な海と女神、マリア様と天使たち、不思議な壺やコインなど美しい色彩を持った切手の傍には、どの封筒にも決まって、鉄条網の前でトランクケースに座る少女が大きな眼でこちらを見ている一色刷りの切手が貼られていました。
父はある日、急に逝ってしまいました。私が21歳の時です。私たち家族は継ぐことはなく、小さな貿易商「ハイビーチ商会」は閉じることになりました。それから20年余りが経ち、切手収集帳を再び開くと、やっぱり、どうもあの少女の切手が気になって仕方がありません。東地中海に浮かぶ島、キプロスのものでした。
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