「専攻は演劇だったんですよね」
「はい。でもわたしは、早々、1年生の終わりころ、大阪芸大の先輩が作っていた『劇団☆新感線』に入ることになったんです。新感線はいつも人手不足だったので、後輩は、首根っこつかまれるように連れて行かれるんですが、わたしも、そのように連れて行かれ」
「学校よりも、劇団の方へ?」
「でも親に内緒でしたし、わたしもこの劇団に骨を埋めることは考えられない、このまま続けられるわけはないと思っていたから、劇団員にはならなかったんです」
「そのとき、アルバイトとかは?」
「最初は、ドトールコーヒーでジャーマンドッグを焼いてました」
「どこのドトールで?」
「天王寺の阿倍野地下センターという、まあ、ガラの悪いところでした。そこがちょうど電車の中継地点で、交通費も出るから、いいと思ったんですけど、ガラが悪くて、娼婦のおばちゃんたちの集合場所になっていて。社長って呼ばれてるポン引きのおじちゃんがいるんですけど、わたしは、『たかだちゃん、たかだちゃん』って呼ばれてて。おじちゃんは、『客ちゃうねん』って言いながら、いつも水だけを飲んでました」
「素敵な環境ですね」
「おじちゃんは、『あの娘おる?』って、娼婦のおばちゃんのことを、わたしに訊いてくるんです。『背の小さい、あの娘』って、それで、『まだです』って答えると、『わし来たって、言うといて』と言って帰ってったりして」
高田さん、いつの間にやら、ポン引きの連絡係にもなっていました。
「学校の授業は?」
「まあまあ、行ってました。午前中バイトして、昼学校行って、夜、劇団の稽古でした」
「劇団の練習だと、帰りが遅くなりますよね。奈良までだし」
「はい」
「親にはバレなかったんですか?」
「バレました」
「あれま」
「最初は『学校の先輩のお手伝いとかせないかんから、遅くなる』と言っていたんですけど」
「まあ、嘘ではない」
「嘘ではない。それで、母親が、その芝居は、どんなものかと観に来たんです」
「いよいよですね」
「そのとき、うちの先輩の古田新太が、変態のビリーという役をやっていて、わたしは、バックダンサーをしていたんです。そのビリーの写真が、丸い団扇にプリントされて、股間のところに穴が空いているのを、お客さんに配っていて、お客さんに、その穴に指を入れて回してもらって、『お前らのオーディエンスで俺は元気になる』といったことが行われていて」
「お母さんも、それをやらなくてはならない」
「そう。それで、母は楽屋とかにも来なくて、家に帰ったら、暗い顔をしていたので、『お母さん今日来た?』って訊いたら、『お母さん、焼いた』と言うんです。『えっ? なに?』『お母さん、あの団扇焼いた』って。破って捨てても、お父さんに見つかったらエラいことになるからと、裏の原っぱで焼いてました」
「すごいな。でも高田さんは、まだ演劇を続け」
「いや、やめる気だったんです。だから劇団活動もストップして、4年生になって就職活動を続けていたんですけど、バブルの時期だったから、良いアルバイトもたくさんあって。そのときは、広告代理店と旅行会社でアルバイトをしていたので、そのまま就職してしまえと思っていたんです」
「なるほど」
「でもそのとき、大学の先生が、『大学の研究室の非常勤副手の仕事があるんだけど、やらんか?それだったら、劇団活動も続けられるぞ』って言ってくれて、そういう道もあるのかと思って、大学に残ることになり、同時に劇団活動も続けることになり」
「両親は、学校に勤めるのは良いことだと思ったんじゃないですか?」
「でも、バイトと変わらないんです。それで、非常勤は二年半で終わりだったので、今度は手に職をつけなくてはと思って、デザイナーになろうと、デザイン事務所にバイトに行ってたんです。劇団活動を続けながら」
「劇団☆新感線がバーっとなるのは?」
「それは、わたしが30を過ぎてからです。大学に勤めた後、デザイン事務所で働きながら芝居をやっていたときは、東京のプロデュース公演に呼んでもらったりして。そのころは演劇界も潤っていたんでしょうね。ウィークリーマンションに泊まって、出稼ぎでした。それで、アルバイトせずに、なんとなくやっていけるような感じになり。まあ実家にもいたので、貯金をしていました」
「親には、もう完全にバレていたんですか?」
「はい、なんだかんだ言い訳をしながらも、続けてました。それで東京に出るのは、ウィークリーマンションで過ごすのが、半年まではいかないけれど、そのくらいになっていたので、引っ越すわけではなく、『東京に部屋を持とうと思う』と親に持ちかけたんです。それでアパートを一部屋借りて、荷物を置いておくということで、家を出ました」
「場所は?」
「阿佐ヶ谷でした。でも東京に出てきたら、大阪の仕事が決まったんです。NHKの朝の連続ドラマでした」
高田さんは、大阪が舞台の「やんちゃくれ」で、主人公の姉の役につきます。わたしは、この印象が強かったので、高田さんが、パワフルな感じだと思っていたのかもしれません。
「でも、それも降って湧いたような話で、わたしはオーディションのつもりで行ったんです。どうせ受からないだろうといった気楽な感じで。そうしたら、ホワイトボードに、ドラマの家系図とかが書いてあって、わたしは変わった役で、『造船所の娘で、溶接工で、その後餃子屋になって、講談師になるんですよ』と言われて」
「すでに決まってた」
「は? といった感じでした。『わたしこれやるんですか?』って訊いたら『やりますよ』と言われて。それまで深夜のドラマに二回出たくらいだったので。まして講談師ですから。でも、『大丈夫です。いけますよって』言われて、本当かなぁと思ってましたが」
「じゃあ、いきなり、ドラマの現場だったんですね」
「はい。でも、なにもわからなかったので、わかりません、といった感じで現場に入ったら。みんな優しくして、とても楽しかったんです」
「ご両親は?」
「NHKの力なのか、喜んでました。親孝行だ、くらいのことを言われて、変わるもんだなと」
「燃やすものもない」
「燃やすものもない。いまだに、その頃の写真を、その頃死んじゃった人みたいに、実家には飾ってあります」
高校のときは、クビになってしまった演劇部ですが、演劇をやってきた人生を振り返って、高田さんは次のように語ります。
「運が良かったというか、いろんな人が拾ってくれて、やってこれました。大阪芸大のことを教えてくれた先生や、大学の先生がいなければ演劇は続けてなかったですし、劇団☆新感線に入ったのもそうです。また最初に東京で芝居をやったのも木野花さんに呼ばれて、それが演劇により深く関わるきっかけになりました。さらに、それを観ていたアール・ユー・ピーという会社にいた岩間さんという方が面白がってくれて、いつもと違うものをやらないかと声をかけてくださって、それで『月影十番勝負』というユニットができたんです。なんだか、どうしようかなと思ったときに、いつも誰かが救ってくれる感じでした」
「プロデュースをするようになって、やりたいことが増えてきた感じですか」
「いや、やれないということが増えてきたという感じです。東京に出てきてから、いろんな人に会うと、自分のやっていることが小さなことだと思えて、それで、いろんなことをできるようになりたいと思うようになりました」
高田さんは、月影十番勝負で公演した『どどめ雪』という作品で、2016年に紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞します。
「壁にぶち当たりまくりの公演だったので、賞をもらうなんてありえないと思っていたんですけど。二十年やってきたご褒美、これまでお世話になってきた方たちを代表して、恥かきのつもりでいただきます、ということで、いただきました」
いままでに世話になった人、そして最初は反対していた、ご両親にも、ある意味、認められた高田さん。今後も、そしてさまざまなことを探求して突き進んでください。さらに野生の勘を忘れず、セミとりも頑張ってください。今年の夏は、素手でセミはとりましたでしょうか?
<プロフィール>
高田聖子 “せいこ”ではなく“しょうこ”。1967年奈良県生駒郡斑鳩町生まれ。大学時代に古田新太と出会い劇団☆新感線に入団。95年に自身が立ち上げたプロデュースユニット「月影十番勝負」、続く「月影番外地」では様々な演劇人とコラボレートするなど新たな挑戦を続けており、2016年「どどめ雪」で、第51回紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞
戌井昭人 1971年東京生まれ 作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』
(本項はSWITCH Vol.35 No.9に収録されたものです)