『風の電話』のイベント前、大久保さんの案内で大槌町をめぐった。津波を受けた衝撃で柱や梁がむき出しとなった市役所の庁舎の表玄関の時計は長針は剥ぎ取られ、短針は3時を回って止まったままだった。井上ひさしの『ひょっこりひょうたん島』のモデルになったといわれる蓬莱島の対岸の埠頭では海猫が冷たい海風に舞っていた。
「小さいでしょう?」
大久保さんが笑った。
『ひょっこりひょうたん島』はサンデー先生率いる子どもたちの物語で、舞台は火山の噴火活動によって海原に流れ出してしまった小さなひょうたん島だ。このひょうたん島で子どもたちがどのようにサバイバルして生きていくのか、漂流の先々でいろいろな人たちに出会う奇想天外な物語は1964年から放映され人気を博していった。後年、井上ひさしは『ひょっこりひょうたん島』は死者の物語だと語った。サンデー先生も子どもたちも最初の火山によって亡くなってしまい、火山後の漂流は天国行きをイメージしていたという。蓬莱島の先端の小さな赤い灯台が津波の後でもけなげに空に向かってまっすぐに立っていた。それは小さな希望のように感じられた。
大久保さんは遠野神社の神楽にも名を連ね、尺八や篠笛など和楽器奏者の名手としても知られていた。しかし津波によって家を流され、和楽器も、ギターや作曲に使っていたピアノも失った。しかしたったひとつだけ、和太鼓が母屋の一階部分から泥とがれきに埋まった状態で発見された。たったひとつの和太鼓は奇跡の太鼓として全国紙の地方面に載った。しかしその和太鼓は乾かしても石油やヘドロの交じった鼻をつくような匂いは消えなかった。大久保さんは音楽を奏でることも聴くこともいやになっていた。全てが雑音のように聴こえ、胸に響いてはこなかった。
「自分の中で時間が止まった。音楽なんてやっている場合ではないと思った」
大久保さんは言う。
数ヶ月たって、和太鼓の記事を読んだという山口に住む老婆からハガキが届いた。亡くなった夫の形見の尺八がある。自分では使わないからもらってほしいと記されていた。しばらく返事も書かないでいたが、またその老婆からまたハガキが届いた。会いたいと思い、大久保さんは山口に出かけた。形見の尺八を最初は固辞していた大久保さんだが、老婆自身が94歳という年齢を聞いてとうとう折れて尺八をいただくことにした。
老婆は奥から布に包まれた尺八を後生大事に取り出してきてこう言った。
「ここに2本ある。どちらでもいい、選んでください」
そう言うと老婆は両手にそれぞれ筒を持って、大久保さんに見せた。大久保さんは困った。2本の筒は本来1本の尺八で、歌口部分と下の部分の中間部で切断されたもので、吹くときはジョイントするものだった。
大久保さんは老婆の前で1本の尺八として聴かせてみせた。固い真竹の低音が美しく鳴った。
「素敵な音色がした。無性に音楽が作りたくなった、奏でたくなった」
大久保さんは言う。
2012年、大久保さんは『光る海』というCDを発表した。タイトルは大槌湾の入り江を重ねたものだろうか、東日本大震災で亡くなった父への鎮魂を込めている。中でも「つぶらな瞳へ」での尺八の柔らかな調べは大槌町の子守唄をベースにした曲で、子どもを失った親たち、親を失った子どもたちへと捧げられている。
スイッチ編集長 新井敏記