26歳で青山に事務所をかまえ、「ISSUE」というミニコミを発行した頃、雑誌「ポパイ」の編集者の知己を得た。最初は特集のリサーチの仕事。ついでに小さな囲み記事を書き、次に署名入りの取材原稿を書いた。タイトルやキャプション、本文の長さ、そして文体のスタイルまで、「ポパイ」の統一されたスタイルは圧倒的で、メジャーの勢いのなんたるかを学んだ。なにしろ発行部数60万部を超えるパワー、わずか数年だが、フリーとして編集部に毎日のように通うことでその醍醐味を肌で知った。1982年当時、マガジンハウスはまだなく、平凡出版として「ポパイ」の編集部は貸しビルの4階にあった。「ポパイ」の文体のモデルは二人、植草甚一と片岡義男、二人ともアメリカのカウンターカルチャーの紹介者だった。海の向こうで起こっている出来事を生き生きと語るその世界、「ポパイ」は夢の扉を開けていった。とにかく遊べという哲学を奨励していく。
僕はリリカルな片岡義男の文体に魅かれ、エッセイ集『10セントの意識革命』や小説『ロンサム・カウボーイ』をひも解いていった。「ポパイ」の連載で片岡義男はナポリタンからボタンダウンシャツ、アメリカのダイナーのことを書き連ねていった。本当に美味しそうに書き、その形の意味を伝え、ローカルヒーローの物語を精緻な筆致で描いていった。アメリカを旅したいと、片岡義男の世界に触れると強く思うのだ。
ある時片岡義男と編集部で会うことができた。彼は連載原稿を持参したのだ。僕は雑誌が好きだということを一方的にまくしたてた。今思えば時代の寵児のような華々しい活躍をしている作家になんて図々しいことを。赤面ものだ。
数日後片岡義男から僕宛に二つの大きな段ボールが送られてきた。中を開けると一つは「ニューヨーカー」、もう一つは「ローリングストーン」のバックナンバーが詰め込まれていた。時代の空気感をまるで押しとどめた段ボールから一冊ずつ取り出してインタビューとは何か、なぜ人は物語を希求するのか、一本の線でなぞるように僕は夢中で開いていった。
スイッチ編集長 新井敏記