FROM EDITORS「傷だらけ」

5月の下旬、瀬戸内寂聴さんに久しぶりに電話をかけた。電話の時間は午前11時半、瀬戸内さんのマネージャーからあらかじめ指定された。

「久しぶりですね。元気でしたか? 待っていましたよ」瀬戸内さんの第一声は弾んだ様子だった。コロナ騒ぎの5月15日に98歳を迎えたことが嬉しいとまずお伝えした。瀬戸内さんはそんな儀礼を一蹴して、僕の用件に話を移していった。気の短さが相変わらずで、それがまた嬉しかった。

瀬戸内さんと電話で話をしたのは約1年前のことだった。その時は瀬戸内さんからで、用件はショーケンの追悼会を開きたいので手伝ってほしいということだった。

「内田裕也さんのお別れ会には700人が参加したという。遺言かもしれないが彼ほどの人が追悼会が開かれないのが実に寂しい。大きな会場でなくてもいい、私が発起人となるので『寂庵』に近しい人を集めてください」

瀬戸内さんに一気に言われた。ショーケンこと萩原健一は2019年3月26日消化管間質腫瘍のため死亡した。68歳だった。

《本人の強い意向により、病のことは公表せずに参りました。最期は、とても穏やかで安らかに、ゆっくりゆっくり、眠る様に息をひきとりました》

妻のリカさんが発表されたコメントだった。

ショーケンが亡くなった後、瀬戸内さんには追悼文の依頼が数多くあった。

「でも追悼文を書きかけては涙でペンが止まってしまう。『the 寂聴』の創刊号でのショーケンとの対談を繰り返し読んでいる。本当にできの悪い息子ほど可愛い」

17歳、ザ・テンプターズの音楽人生からはじまるショーケンの芸能の軌跡は実に波乱万丈だった。1972年のTVドラマ「太陽にほえろ!」と映画『約束』の演技は疾走するように時代を駆けていった。「前略おふくろ様」を経て「傷だらけの天使」の活躍は破天荒なかっこよさがあった。その裏で飲酒や暴行、大麻所持によってショーケンは4度の逮捕歴を誇ることになった。傷だらけの不良の更生を手助けするために、瀬戸内さんは後見人となって面倒を見ることになる。1983年大麻所持の判決が出た翌日にショーケンは「寂庵」へと向かい、剃髪をして修行を行った。その成果を瀬戸内さんは評価し、自身の一文字を与え「寂照」という名前をショーケンに授けることになった。

追悼会は結局リカさんの強い意向により開かれることはなかった。断念の報告をする電話の最後、「かくまったのが縁」と瀬戸内さんは静かに言った。非難は覚悟、その思いは不良を庇い続けた母のものではなく、同じ孤高の人生を生きた同胞の潔さを感じた。追悼は形ではなくその浄さだけでよかった。

スイッチ編集長 新井敏記