「映画館とかはいかなかったの?」
「映画館に行くのは怖かったんですよ。そのころウッチャンナンチャンの内村さんが、テレビの企画で、日大の映画学科を受けるというのをやっていたんです」
「あの人たちは、日本映画学校ですよね」
「そうですね」
なんだかややこしいですが、日本映画学校出身の内村さんが、日大の映画学科を受けるといったテレビ企画。
「そこで、映画の大学があるんだというのを知って、そこから日芸を目指しました」
「予備校は通ってたんですか?」
「サテライト授業ってあるじゃないですか。大きな画面に先生が映って授業する」
「はい」
「あれ生放送なんですよね。でも、自分は録画だと思ってたんです。それで、はじめて行ったとき、前の方に座ってたんですけど、なにも教科書を開いてなかったんです。そしたら、『君! 開きなさい』と画面の中かの講師に怒られて」
「録画だと思ってたのに」
「わけわからなくなって、恐ろしくなった。さらに、まわりの目が怖くて、恥ずかしくなって、行かなくなってしまいました」
「じゃあ、個人で勉強してたんですか」
「そうです。でも、よく受かったなって思いますよ」
「ビデオと勉強の日々ですね。でも、そのときに、好きな監督などを発見したんですか?」
「はい。大島渚、今村昌平、増村保造は、ビデオ屋にあった作品は全部見たんですけど、古い映画は名画座で見られるってことすら知らなかったんで、結局VHSで」
「そこで監督になることを決意した」
「というか受験のときに、とりあえず監督コースを選んだんです。それが意識したはじめです」
「学校に入ってみてどうでしたか」
「高校にも2つ行ったし大学も2つ目だったんで、ここで生きていけなかったらおしまいだと思ってましたね。自分で映画の本なんか読めるだけ読んで入学したんですけど、ほかの人たちのほうが映画見てなかった」
「冨永さんは、1年間のビデオ学習が凄まじかったですもんね」
「山奥から出てきた俺のほうが映画に詳しかったんですよ」
「一番映画に詳しい人は、どんな感じでしたか?」
「変な態度だったと思いますよ、『なんで大島観てないの』とか言ってた」
「すると、『冨永先輩教えてください!』とかなるんじゃない?」
「同期にひとり歴史家の私塾に通ってるやつがいて、そいつと仲よくしてたら、ほかの連中から『左翼だ』とか『右翼だ』とか言われました。どっちでもなかったんですけど」
「でも、映画に対しては、いろいろ詳しかったんですよね」
「知ってる気になってただけですね。映画館で映画見てなかったですもん。だから友達に誘われて映画館に行ったとき、びっくりしたんですよ」
「え?」
「VHSとの差に」
「そうか、それまでは、ビデオ学習のみだったか」
「はい」
その後、映画館でさらなる衝撃を受ける冨永さん。
「『アンダーグラウンド』を観たときに、ものすごい映画を観てしまったと思いました。シネマライズの最前列で、ちょっと見上げるような感じで観てたんです。それで、後ろの方を見ると、客もみんな興奮してるのがわかるんです」
「『アンダーグラウンド』は、映画自体の熱気もすごいですもんね」
「だからもう、VHSを見るのはやめようと思いました」
このような映画館体験をした冨永さんは、いよいよ映画を作りはじめます。
「そう、そのころは、だいぶ田舎者臭さが抜けてました」
「どんな感じで?」
「方言が抜けたら性格も変わってきたんですよ」
「どんな風に?」
「普通に映画館に、楽しい映画を見に行けるようになったんです」
「VHSの時代も終わり」
「はい。そのころ実家に不幸が続いたんですけど、そういうのがあって大人しくなって、逆に自意識が薄くなった気がします。そうすると気の合う友達も増えて、大学が楽しくなりましたね」
「それで、大学4年で卒業製作を?」
「はい。まず3年生で15分の短い映画をつくります。でもこれが難しくて。学内で作品を作るときには企画書にテーマを書けと。でもみんな20年しか生きてないから、描きたいテーマなんて持ってないんですよ。だから大学生や高校生が主人公の学園モノが多くなるんですね。だったら自分は違うことをしようと思って、誰も理解できなくてもいいからと、おどろおどろしいテーマを書いて提出しました」
「どんな話だったんですか?」
「雨不足で産湯が用意できず出産に失敗するという」
「反応は?」
「学内ではボロクソでしたけど、いまだに最高傑作と言う友達もいます」
「作ってみてどうでした?」
「やっぱり普段から何も考えてないやつが、映画を撮るからといって無理にテーマを持とうとしてもダメでしたね。どうしても自分で書いた言葉が負担になるんです。だから卒業制作では企画書にテーマを記入しませんでした。それだけですごく自由になりましたね。それはドイツの映画祭で賞をもらいました」
「学校から出品したんですか」
「いや全部自分で手配したんです。ドイツのオーバーハウゼン短編映画際というので、貰ったのは、小さな賞だったんですが」
「でも、それはやる気になりますよね」
「そうなんです。それで卒業してからは、同級生の杉山ひこひことかとルームシェアしつつ、その家の中で撮れるものを作ろうということになりました。金を貯めて撮るというよりも、お金が無くてもできることを撮り続けようと」
「なるほど」
「そしたら、それを劇場でやらないかということになって、池袋のシネマロサで上映してくれました。それからです、なんだか自信を持てるようになってきたのは。それで映画を作り続けながら、四谷のイーグルというジャズ喫茶で働いてました。昼は清掃のバイトをしたり、そのあとは本の露天商をやってました」
「本の露天?」
「倒産した、本屋の新古本とか売るんです」
「駅の地下とか、本の市で売ってる?」
「そうです」
「じゃあ、バイトを掛け持ちしながら映画を撮ってたんですね」
「そうです。それで、30歳くらいの時に長い映画を撮るようになったんですけど、それまでは、シネマロサでやってくれるだろうと、そこで満足してたんですけど」
「それで最初の劇場作品を」
「『パビリオン山椒魚』です」
「あの映画は、宣伝とかも結構大々的でしたよね、出演者も豪華だし」
「そう、いま考えると、あれが一番大々的でした」
それから、数々の劇場映画を撮り、今回の、『素敵なダイナマイトスキャンダル』になっていきます。
「『素敵なダイナマイトスキャンダル』は30歳を過ぎたくらいに読んだんです。それまで末井さんは、『パチンコ必勝ガイド』のCMで女装してるタレントだと思ってたくらいでした。お母さんが浮気相手とダイナマイト心中とか、グラフィックデザイナー志望で風俗の看板描いてたとか、エロ雑誌の編集者になってとか。末井さんのことをパチンコ業界のタレントだと思っていたのを恥じて、これをぜひ映画で観たいと思ったんです」
「なるほど」
「末井さんも岡山の田舎から都会に出たいと思っていたとか、それで都会に出てみたものの自意識が強かったりして」
「冨永さん自身にも繋がるところがあった」
「はい、だから誰が読んでも共感できると思ったんです。でもすぐに映画で撮れるとは思ってなかったから、結局、10年くらいかかってます。と言いつつも自分で思っているだけの時期から徐々に進んでいって、他の映画を作りながら、近づくチャンスを伺って、それで2012年に、末井さんに直接話したんです」
「あのときだ」
「そうです」
あのとき、というのは、わたしと末井さんが参加していたトークショーのとき。あれからさらに6年、『素敵なダイナマイトスキャンダル』の映画ができました。
映画の主演、末井昭さんの役は、柄本佑さんが見事に演じております。
そして、現在から思うと、規制は厳しかったけれど、おおらかな時代だったと思える昭和の雰囲気が画面に流れていて、ヘンテコな人もたくさん出て来ます。
しかし決してノスタルジックにはならず、今がソコにある映画。是非とも観に行ってください。
さらに冨永監督が、なんとしてでも田舎から脱出しようと思っていた、熱を感じることもできると思います。
冨永昌敬 1975年愛媛県生まれ。日本大学藝術学部映画学科卒業制作『ドルメン』が2000年のオーバーハウゼン国際短編映画祭審査員奨励賞を受賞。06年『パビリオン山椒魚』にて映画デビュー、最新作は『素敵なダイナマイトスキャンダル』
戌井昭人 1971年東京生まれ 作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』