自然に挑むのではなく、自然と共に生き、
自然に対して真摯であること。
表現者は自然の声に耳を傾け、生きる知恵を学ぶ。
北海道に通い詰め、長年クマの撮影を続けてきた写真家
二神慎之介が考える自然と人の正しい関わり方。
「どうしてクマに惹かれるのですか?」とよく訊かれるのですが、突き詰めるとその存在の大きさかもしれません。大型動物というよりも、ギュッと凝縮された命の塊のように僕には見える。他の動物にはないエネルギーと出会う瞬間に、毎回強い感動を覚えます。
クマに興味を持ったのは20代の頃、知床に鮭の遡上を見に行った時のことです。川辺に落ちていたクマの糞に松ぼっくりのような実が含まれていることに気づいた。何を食べているんだろうと気になって調べていくと、どうも稜線上のハイマツの実を食べているらしいということがわかった。北海道のクマって、鮭を食べているイメージが強いと思います。そういった写真や映像を目にする機会が多いのがその理由でしょう。しかし実際のクマは、様々な食べ物を求めて海から山の稜線まで縦横無尽に移動する動物です。春先に雪がとけると、生え出した柔らかい草を食べます。次第に気温が高くなってくると、まだ柔らかい草がある場所を求めて少しずつ標高を上げて移動します。だから、例えば雪渓の脇を歩いているクマにもちゃんと理由がある。
クマの食性を学び、理解を深めるにつれて、クマは強く儚き存在だと思うようになりました。動物の一個体としては非常に強い存在だけど、これだけ様々なものを食べているからこそ、生態系のどこかが異常をきたしたら影響を受けてしまうのもクマなんです。故に、クマの存在は自然の豊かさの象徴とも言える。そういうことを特に子ども達に伝えていきたい。また、人間と野生動物との距離感も無視できない問題です。クマに無理に近づいて危ない目に遭ったことを武勇伝にしてしまいがちですが、それは実は恥ずかしいこと。クマを撮り始めたばかりの頃は、できるだけ近づいてその表情を撮ろうとしていましたが、次第にそういった欲から解放されていきました。星野道夫さんが『クマよ』(福音館書店)の中で書いていたように「見わたすかぎりの原野に ぽつんとおまえがいるだけで 風景はなんだかもういっぱいだ」という気持ちが僕にもわかってきた。雄大な景色の中にぽつんといるクマも、大切に撮っていきたいと思っています。
写真を撮るのは僕にとって、物語を伝えるための手段です。自然の中において「True」じゃないものというのは、誰か他の人間に伝えようとする時に生じてしまうもの。例えば世に発表する記録だったり、意図的に人の営みを排除した作為的な写真を見せたりすることもそれにあたる。動物写真においては、迫力ある写真が好まれがちですが、人間側が期待するシーンに寄り添うほど、効率を求めて不自然なものになってくる。安易に迫力のある絵を求めれば、どうしても同じような場所で同じような写真を撮ることになる。多くの人間と野生動物の不自然な距離感は、両者の軋轢を生むことすらあり得ます。ひたすら歩き、自ら発見して、被写体との距離感を作っていく作業こそが自然写真の9割と言ってもいい。もちろん効率は悪いし、ビジネスとしては成立しにくいかもしれませんが、僕は自然に対して正直にありたいんです。
本稿を収録した「Coyote No.72 特集 星野道夫 最後の狩猟」はこちら。