ミュージシャンの元ちとせと浜端ヨウヘイは、SDGsやサステナブルという言葉が声高に叫ばれるようになる以前から、環境問題に高い関心を持っていた。そのきっかけのひとつとなったのが、原生林の伐採が深刻な問題となっている東南アジアのボルネオ島をサラヤと共に訪れたことだった。ボルネオで起こっていることをふたりはどう受け止め、向き合い、自身の表現に昇華させているのか
TEXT: ITAKO JUNICHIRO
Presented by サラヤ株式会社
“知る”ことから始める
多彩なミュージシャンが在籍するオフィスオーガスタ。その事務所のアーティストルームには、今年も9月25日に横浜の赤レンガパークで開催される事務所主催のライブイベント「Augusta Camp 2021」への出演を控えている元ちとせと浜端ヨウヘイの姿があった。
生まれ育った奄美大島で幼い頃からシマ唄に親しみ、2002年に発表したメジャーデビューシングル「ワダツミの木」が大ヒットを記録、今もなお唯一無二の歌声を私たちに届けている元ちとせ。そして、会社員との二足のわらじでインディーズでの活動を開始し、2019年にメジャーデビュー、ライブを中心に活動を続ける浜端ヨウヘイ。事務所の先輩後輩という関係性だけでなく、両者にはある共通点がある。それはかつてふたりとも東南アジアにあるボルネオ島を訪れたことがあるということだ。
日本から飛行機で約7時間、マレーシア、インドネシア、ブルネイの3つの国が領有するボルネオ島は世界で3番目に面積が大きな島だ。そんな島をふたりはなぜ訪れることになったのか。
「私は奄美大島という場所で生まれ育ったこともあり、デビュー以降、様々な形で自然や生き物に触れる取材やお仕事をさせていただくことが多かったんです。そうした経緯もあり、サラヤさんからボルネオに行ってみませんか、とのお誘いをいただいたのがきっかけでした」
元が言う「サラヤ」とは、大阪に本社を構える企業の名だ。サラヤは1952年に学校など公共施設のトイレでよく使われる「緑の石けん液」を開発・販売。日本初の薬用石けん液に代表される洗浄・消毒剤の医薬品メーカーだ。今では人々の暮らしを豊かにするための多種多様な衛生商品を生み出しているが、中でもサラヤを代表する商品が1971年に発売された「ヤシノミ洗剤」だ。ヤシノミ洗剤は当初から〝手肌と地球にやさしい〟をテーマに掲げ、当時主流だった石油系洗剤による環境汚染へのアンチテーゼとして、ヤシの実からとれるヤシ油を原料にした植物系洗剤となった。しかし近年、原料のひとつであるパーム油の世界的な食糧需要の増加を受け、パーム油の原料となるアブラヤシのプランテーションが無秩序に増加。生産地であるボルネオ島の原生林が伐採され、野生の動植物が絶滅危機にあるという事実をサラヤは知った。そこでサラヤは様々な形でボルネオの自然を守りながらも現地で暮らす人々の生活の重要な基盤となっているパーム油産業の両立を目指す活動を継続的に行っていくことを決める。そうして2005年から始まったサラヤの取り組みは現在も継続中で、ボルネオの現状を日本の人々にも伝えるべく定期的に視察ツアーを開催するようになり、2013年に元が、そしてその後、2回に渡り浜端がそのツアーに参加し現地を訪れることになった。
「私は、奄美を離れてみてあらためて自然の仕組みや人間と動物や植物といった生物がどんなふうにバランスを取れば共存していくことができるのかを考えていたんです。そんな時、サラヤさんからボルネオのお話をいただいたので、すごく興味が湧きました。世界規模の環境問題については簡単には答えを出すことはできないとは思っていたけども、とにかくまず大事なのは〝知る〟ことだと思い、ボルネオに行かせていただくことにしたんです」
元の言葉を引き継ぐように浜端が言う。
「ボルネオに行く前に現地でどのような問題が起きているかを予習してはいましたけど、正直どこか現実感が希薄だったんです。でも実際にボルネオの状況を目の当たりにした時に、ちとせさんが言うように“知る”ことの大切さを痛感しました。ヘリコプターに乗って空からボルネオの森を見させてもらったんです。空からパッと見た感じでは広大な緑が広がっていて、すごくいいなと感じるんですが、よく見てみると、そこには同じ種類の植物しか生えていないことに気づいた。それがアブラヤシのプランテーションだった。不自然な直線で森が区切られている光景に大きな違和感を抱いたことは今でも憶えています」
人間と自然が共生しながら、しかし明確な断絶が生まれている状況を実際に目にした時、元は人間のエゴについてあらためて考えたという。
「人間だけでなく動物たちにも自分たちが生きる場所を選ぶ権利はあるわけだし、その上で自然界というのはすごく繊細なバランスで成り立っていると思うんです。なのに人間が自分たちの都合や利益だけを考えて自然の形を変えていこうとする。そうなった時に、自然を守るべきだという人たちとの対立が生まれ、争いにまで発展してしまうこともある。もちろん人間も生きているわけですから、自分たちのより良い暮らし方を模索していく必要はあるけども、ボルネオで森林伐採の影響や人間による迫害のせいで親を亡くして孤児になってしまったオランウータンやゾウの子どもたちが保護されている施設の様子を見た時には人間のエゴをすごく感じたし、これは人間同士で考えるべきことだなと感じて。そういう状況を私ひとりの力では良い方向に変えることはできないし、そんな力がないことも重々承知している。でも、そこで見たこと、聞いたこと、感じたことを日本に帰ってきて、たとえば自分の子どもたちや、子どもの同級生のお母さんなど身近な人たちに教えてあげること。そうした小さなことでも地球環境に対する自分なりのアクションになるんじゃないかと感じたし、私たちアーティストはそうした経験を音楽の力にして表現を通して何かを伝えることができる。自分にまずできることはそれしかないのかなと思いました」
浜端にもボルネオで見た光景の中で印象的だったものがあるかを訊ねると、ある出来事を教えてくれた。
「視察ツアーの参加者のみなさんと川下りをした時、川辺にヨーロッパから来たと思われる一団がいたんです。最初は観光ツアーで来た人たちかなと思っていたんだけど、ある男性に『どうしてボルネオに来たんですか?』と訊いてみたら、『僕らは植樹ツアーで来たんだ』と言う。つまり、伐採で減ってしまった木を植えるためにボルネオに来ていたんです。そのことをすごく楽しそうに口にした彼を見た時、肩肘はって何かを変えようと躍起になるのではなく、生まれ育った環境の中で出来上がってきた自分の生活サイクルの無理のない範囲で、ほんの少しだけでもいいから地球や環境に対する視点を変えてみることから始めればいいのかなと思った。今はSDGsという言葉が叫ばれていますけど、持続可能な範囲でそれぞれがやれることを日々実践していくことが大事なんだという気づきを体験を通して得ることができました」
元が続ける。
「ヨウヘイが目にした植樹ツアーも今すぐに何かを変えるためではなく、何十年も先の未来に対する希望、思いですよね。それと同じように、私たちがボルネオを訪れたことが何十年後かの未来に繋がる何かのきっかけになるかもしれない。そういう機会を与えてくれたサラヤさんにはすごく感謝しています」