Special Contents 刊行記念特別対談 イッセー尾形×松岡和子 第1回(全3回)

『シェークスピア・カバーズ』の刊行を記念して『SWITCH Vol.39 No.10 』に掲載された、俳優・イッセー尾形と翻訳家・松岡和子のシェイクスピア対談を全3回に渡り特別公開。

Photography: Goto Takehiro

翻訳家の松岡和子は今年、シェイクスピア全37作品を完訳した。1996年『ハムレット』の刊行から『終わりよければすべてよし』まで25年間の軌跡、坪内逍遥、小田島雄志に続く偉業だ。先達にない松岡シェイクスピアの魅力のひとつは、女性たちへの眼差しにある。たとえば純粋愛を貫いたオフィーリア、喪失を力に自ら父からの支配を解き放っていく。狂うことはまさに自由の獲得であり、それは松岡の真骨頂なのだ。オフィーリアは決して見捨てられた女ではない。

イッセー尾形は独自の世界観でシェイクスピアの物語にひそむどこか滑稽で時に哀しく、愛すべき人間たちを描き出していく。市井の人々への眼差しは松岡シェイクスピアと呼応する。イッセー尾形が9月に上梓する『シェークスピア・カバーズ』はシェイクスピアの10の物語を“カバー”した作品集だ。たとえば「ヨリックの手記」は『ハムレット』へのオマージュ。シェイクスピア翻案とは違い、敗者の視点でシェイクスピアの世界を今日的に一歩進めた物語なのだ。

豊穣な世界、たくさんの不思議がつまったシェイクスピアの魅力を松岡和子とイッセー尾形が語り合う。

構成 新井敏記

狂うことの自由

松岡 『シェークスピア・カバーズ』にはもう圧倒された。すごいですね。

イッセー 何をおっしゃいますか。今日は松岡さんの自慢話をいっぱい聞こうと思ってきたの。松岡さんはシェイクスピアに関してこんなにすごいんだ、ってことを知らしめるために。

松岡 イッセーさんのカバーシリーズは、『ヴェニスの商人』を元にした「クォーター・シャイロック」という作品で私の訳を使っていただいたことをきっかけに読みました。挿絵もお描きになられていて、イッセーさんの妄想力のすごさに圧倒された。そして尽きることなく溢れ出てくる語彙の見事さ。そもそもシェイクスピアのカバーをやろうと思ったのは何がきっかけだったのですか。

イッセー 元々はシェイクスピアの有名な作品をカバーしませんかというお話をいただいたんです。それで誰しもが知っている作品、まずは『ハムレット』だなと。でも実際に読んで、これはカバーしようがないと正直思いました。だって『ハムレット』はいろいろな人が書いているし、いろいろな俳優さんがやっている。それでも読み進めていくと、骸骨のヨリックというキャラクターが出てきた。道化師の役はシェイクスピアには付きもので、王様の近くにいてアホなことを言ってチャラにするみたいな役柄。ヨリックも『ハムレット』ではそうだったのかなと。そこから、松岡さんのおっしゃるところの“妄想力”が働いた。

松岡 すごいと思ったのは「カバーズ」のバラエティの豊かさです。まず、スピンオフがある。時空は原作と同じなんだけど、視点を移した「荒野の暗殺者」や「リア・アゲイン」がこれに入る。次に原作の後日譚がある。「乳母の懺悔」や「ヨリックの手記」がそう。それから、近現代のシェイクスピア劇がどうなっているか、がある。「革命のオセロー」は社会主義革命当時のロシアが舞台だし、「クォーター・シャイロック」はナチが支配するドイツが舞台。シェイクスピア劇は、当時は時間的・空間的・ジャンル的に「点」だった。上演されたのは1593、4年から1610年代初頭までのほぼ20年、場所はグローブ座というテムズ川南岸の一劇場、ジャンルは演劇。そこから400年を数えて今やシェイクスピアは全世界に広がり、バレエ、絵画、映画といったありとあらゆる表現芸術に影響を与えている。それを役者の目で捉えたのが「クォーター・シャイロック」だし、右も左も分からない日本人記者のルポのかたちを取る「革命のオセロー」。シェイクスピアの様々な作品をイッセーさんはまったく新しく仕立てあげている。ある意味スピンオフは誰もが考えることだと思う。

Photography: Goto Takehiro

松岡 トム・ストッパードの有名な戯曲『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』もいわばスピンオフ。脇役が主役となって前面に出ている。イッセーさんのスピンオフはもっとひねりが効いている。その最たるものが『マクベス』を元にした「荒野の暗殺者」です。バンコーを殺せという指令を受けた二人の暗殺者。そこに三人目の暗殺者がやってくるという展開は原作通りだけれども、イッセーさんは彼の本当の役目は仕事が終わったらその二人を殺すことと解釈する。なるほどと思う。また『ロミオとジュリエット』の後日譚の「乳母の懺悔」では、主人公の乳母は元々は田舎の人という設定。原作の乳母の年齢はおそらく30代だと思うんです。ジュリエットの母は28歳で、乳母はジュリエットと同い年の娘のスーザンを産んで、亡くしている。ジュリエットがもうすぐ14歳だとすると、どう考えてもあそこの場面の乳母も30代。でも「乳母の懺悔」では、故郷に帰ると孫もいるし、「ばあちゃん」と呼ばれている。キャピュレット家で仕事していた時から年月が経っており、その孫娘がジュリエットに憧れている。おそらくイタリアのどこかの田舎の村、いまだに『ロミオとジュリエット』の話が伝説になっていて、二人に憧れる若い男女がいる。バラエティに富み、かつひとつひとつの作品の持っている特性に相応しいスピンオフや後日譚がイッセー・カバーズの世界なんです。着想に圧倒された。

イッセー きっかけは松岡さんです。松岡さんのシェイクスピアの翻訳の面白さは台詞に現れる。

松岡 それはシェイクスピア。私じゃない。

イッセー いえいえ、文庫の欄外に小さな文字で書かれている文章も面白いです。いわゆる脚注。本文とちょっと距離を置いたスタンスが読み手をすごく楽にしてくれる。本文だけだと物語の内容をちゃんと読まなければと、身構えてしまう。でも脚注があることによって隙間が生まれる。これがすごく大事なんです。演じる時、ややもすると自分と役との間の距離がなくてべったりと演じてしまう。それはつまらないのです。観客に向けて「さあ笑ってください、お願いします」となる。でも距離があると「別に笑っても泣いてもいいですよ」という隙間が出来る。演じる時も「この男はなんでこんなこと言うのかな」とひとつ冷めた視点になれるんです。松岡シェイクスピアを読んでいると少し冷めた視点で読める。人間冷めると、活性化が逆に起こる。頭が働く。だから台詞から声が聞こえる。描かれている人の声に耳を澄ます、目を凝らす。『ロミオとジュリエット』の乳母が田舎に戻ったことにしよう。最初はなんて言おうか。「驚いたね、私は」という第一声が聞こえてくるんです。それで先に進むことができる。文章というよりも声が大事。一人芝居もモノローグみたいなものです。その声が切り拓く世界が『シェークスピア・カバーズ』になっていく。遠くに控えている大きな世界を勝手に妄想することができる。でも結局はどこまで行っても妄想であり、仏の掌から出ることはない。シェイクスピアに関してはそんな甘えがあります。

松岡 「荒野の暗殺者」の二人の暗殺者を兄弟にするというアイデアも、そうやって声を聞いているうちに出てきたんですか? 読んでいて「この二人兄弟だったのか!」とびっくりした。

イッセー まさにそう。そうすると、兄弟は仲が良いより悪い方が面白いから(笑)、話もそうなっていく。

松岡 知らない間に弟だけが取り残されて……みたいな役割分担が出来てくる。

イッセー そして三人目が来ることで、一対一の関係だったものが三角関係になっていく。

第2回はこちら


『シェークスピア・カバーズ』
3,520円 (うち税 320円)