Special Contents 刊行記念特別対談イッセー尾形×松岡和子 第2回(全3回)

『シェークスピア・カバーズ』の刊行を記念して『SWITCH Vol.39 No.10 』に掲載された、俳優・イッセー尾形と翻訳家・松岡和子のシェイクスピア対談を全3回に渡り特別公開。

第1回はこちら

Photography: Goto Takehiro

最初のハムレット

——お二人の最初のハムレット体験はいつだったのですか?

イッセー 東京のグローブ座で、海外の公演を観た時かな。裸電球がひとつ、プラプラしていて。ハムレットが狂人ぶって、テーブルに置かれた自分の指と指の間に短剣を刺す真似をしたり。

松岡 それはアンジェイ・ワイダの『ハムレット』かもしれない。密室的な演出の『ハムレット』です。ワイダの『ハムレット』を観られたのはいい出会いですね。

イッセー ぼくも一応役者の端くれとして『ハムレット』を観たんじゃないかな。松岡さんの最初の『ハムレット』体験は?

松岡 最初は1979年に来日したデレク・ジャコビ主演のもの。忘れられないのは1989年にストラットフォード=アポン=エイヴォンのロイヤル・シェイクスピア・シアターで見たマーク・ライランス主演の『ハムレット』です。これがとても素敵でした。

イッセー どんな始まり?

松岡 大きなガラス窓の前にハムレットが旅行鞄を持って後ろ向きで立っている。横にはオフィーリアと思われる女性が寄り添っている。これからウィッテンバーグに戻るのかなという感じ。でも父王の亡霊の話を聞いて、帰らずに亡霊のことを探るみたいになっていく。佯狂(狂人のふり)の場面も素敵だった。ハムレットは、食べこぼしのついたパジャマ姿でソックスをだらしなく履いている。旅役者たちが来ると、背当てにHAMLETと書かれたディレクターズチェアに座って指示を出す。要するに狂ったふりというのは何も変な格好をするんじゃなくて、「きちんとしていない」状態だとこの演出家は解釈した。その演出によって逆にハムレットのすごさが見える。

イッセー ハムレットを演じたのはいい男?

松岡 いい男というか、若くてかわいかった。イッセーさんの経験に重なるのが、やはり東京グローブ座で見た『ハムレット』です。イングマール・ベルイマンの演出で、ペーター・ストルマーレというスウェーデンの役者が主演。すごかった。トレンチコートを着て黒いサングラスをかけて出てくる。ただ粋がった扮装かと思うとそうじゃない。衝撃を受けた作品だったので、私は後で原作と突き合わせながらベルイマンの演出を見ていきました。『ハムレット』にはいくつかの筋が流れている。ひとつの流れはハムレットとクローディアスの腹の探り合い。ハムレットを罠にかけてオフィーリアと出会わせる時に、“seeing unseen”という言葉が出てくる。私は「見られずに見る」と訳した。「見られずに見る」ことが相手を探る最も有効な手段であり、そのための一番小さな道具がサングラスなんです。かけている本人は全部見えるけれど、相手は彼がどこを見ているのかわからない。

イッセー ハムレットはサングラスをかけていて、クローディアスは?

松岡 クローディアスはかけていない。だからハムレットの方が上手なわけ。

イッセー そうか。

松岡 ガートルードとクローディアスの登場も狂態です。絡み合ってゴロゴロゴロッて出てくる。それで宮廷の廷臣たちはみんなストッキングをかぶって表情をわからなくしている。

イッセー それは演出力ですか?

松岡 演出力。最近、観ていて嫌だなと思う演出があって、私は「ドヤ顔演出」って呼んでいるんですけど、ここだという時にガーンと音楽を流したり、パーンと照明が派手になったりする。そうしたものがベルイマン演出には一切ないのに、ものすごい力がある。この二人の関係はこうだ、と提示する。それこそ“seeing unseen”というひと言にすべてを当てて、ハムレットにそれを表現させるとサングラスになる。

Photography: Goto Takehiro

——シェイクスピア演出の凄みというと、蜷川幸雄さんのことを知りたいです。松岡シェイクスピアによる蜷川公演『ハムレット』が1995年銀座セゾン劇場で上演されました。ハムレット真田広之、オフィーリア松たか子、舞台は中央に階段があり、左右に欄干が広がっている。一階と二階があり、楽屋がそのまま仕立てられている。カーテン一枚で楽屋が舞台になる。

松岡 蜷川演出は本当にすごかった。舞台奥が上下二段になっていて、個々に区切った楽屋で真田広之や松たか子をはじめとする役者たちが、まず「素」の状態でメイクをしたり衣装を着たりしている。シャッというカーテンの閉まる音がした途端に暗転し、「誰だ!」という誰何(すいか)の声で明かりが入る。ハムレットが芝居好きということで蜷川さんと盛り上がったことがあって、私が「フォーティンブラスは絶対に芝居好きじゃないですよね」と言った。そうしたらそれが蜷川さんにピッと来たんでしょうね。幕切れ近くでフォーティンブラス軍がなだれ込んできて、楽屋の化粧前の鏡を割るという発想になった。割れても危なくない素材をいろいろ試しました。兵士たちが矢尻でもってガンガンと割る。だから芝居好きなハムレットは化粧から始まるというアイデアが生きてくる。芝居なんてものにまったく興味がない非文化的なフォーティンブラスが攻めてきて、芝居そのものを壊す。そこで終わる。私は自分が関わったという愛着もあるけれども、その後もこの蜷川『ハムレット』から逃れられなくなりました。レアティーズを送り出す場は、雛祭りの雛段を飾る幸福なところから始まる。雛人形を飾るのは普通はお母さんと娘、それをポローニアス家ではお父さんが飾り付けを手伝っている。この家は父子家庭だとひと目でわかる。でもその瞬間がポローニアス一家にとって一番幸せな時で、以降どんどん幸せは崩れていき、結局みんな死んでしまうわけでしょう。父が殺され、妹が狂い、最後はレアティーズが亡くなる。

イッセー ポローニアスは女性的なところがあります。

松岡 母であり父であるという二面性を、雛飾りを一緒に飾ることで無言のうちに表現している。作品の大事なポイントの細かい解釈というものを蜷川さんは読み合わせではやらない。しかし立ち稽古で細部で伝えることをする。

イッセー シェイクスピアの作品には演出家の腕の見せ所が随所にある?

松岡 あります。宮藤官九郎さんが『ロミオとジュリエット』を私の訳で演出したことがある。その後、シアターコクーンで偶然私の隣に宮藤官九郎さんが座って、森新太郎さん演出の『ロミオとジュリエット』の話になった。森さんも私の翻訳を使ってくれた。宮藤さんもそれをご覧になっていて、同じ翻訳なのに舞台はこんなに違うんだと、宮藤さんはビックリしたそうです。シェイクスピアはきわめて饒舌な作家だから何もかも全て言い尽くしていると思いがちだけど、実はそうではなくて、シェイクスピアの台詞にはすごく深くて広い行間がある。だからそこに演出家はいろいろなものを注ぎ込むことができるし、そこから掘り起こすことができる。

イッセー たとえば長い台詞であってもその中に行間があるということですか。

松岡 そうです。キャラクターの一言のあいだにある。イッセーさんの『シェークスピア・カバーズ』も、その行間を掬い取っているのではないですか。

イッセー おお、いきなり(笑)。

松岡 シェイクスピアの行間をイッセーさんがすごく読んでいる。だから私は「え、ここまで読むか?」、「そう読みますか」と、いちいちびっくりしちゃった。

イッセー 本当ですか(笑)? ありがとうございます。

Photography: Goto Takehiro

——たとえば「ヨリックの手記」はどう書き進めましたか?

イッセー まずはヨリックになる。これは昔、たぶん安部公房が言っていたのですが、文章を書く理由がある人が書くのだと。思い込みかもしれないけど、そういう風に覚えている。一番書く理由がある人がその文章を書く。じゃあヨリックが書く、喋る。誰に? それはやっぱりカミさん宛ての手紙だろう、と。これが一番ヨリックには理由があることなんです。そしてクローディアスに、こんなことがあったと報告する。次に最初の一行目を考える。手紙は声そのものだと思うんです。聞いてくれるか、という切実な声になる。松岡さん翻訳は文字だけで表現するのではなく、身体や声を使って言語化しているのだと思っています。

松岡 たしかに声は出しますね。声を出すし、呼吸する。呼吸はすごく考える。

イッセー 詳しくは知らないけれど、シェイクスピアの文章は韻を踏んでいるのでしょう?

松岡 ほとんどは無韻詩で書かれています。でも退場直前の行では韻を踏む。部分的にソネット形式を採りもする。それを日本語にどう置き換えるか。言葉の構成も違うし決して同じようには作れない。どうするかと言うと、等価なもの、価値の等しいものを生み出そうと努めるのです。美しい表現や力強い言葉を選んだりして、原文と等しい価値の言葉を生み出したい。それにはどうしたらいいかと考える。たとえば同じ意味でもここは漢語由来の表現ではなく大和言葉を使おうかな、とか。書く時も漢字ではなく平仮名にしようかなと思う。実際に私はシェイクスピアを訳したおかげで、日本語の特徴というものに気が付くようになった。

イッセー ああ、よくわかりますね。

松岡 たとえばオノマトペ。さ行は大体綺麗な言葉なんです。「さらさら」「そよそよ」。「爽やか」や「涼しい」といった形容詞も綺麗。さ行の言葉は大体私たちに快感を与えてくれる言葉。そうすると、英文を読んで快感が呼び覚まされると、どうにかしてさ行の言葉を探す。また、無韻詩には、アクセントの弱強のリズムがあります。日本語でも呼吸に合わせる。それから言葉の選択がある。イギリス人でシェイクスピアの日本語訳を研究している珍しい学者が何人かいるんです。

イッセー へえ。面白い(笑)。

松岡 そうした方が私を時々研究材料にしてくださることがあって、その一人から『ジュリアス・シーザー』を訳した時に、「松岡さんはこの『ジュリアス・シーザー』の翻訳で四字熟語をたくさん使ってらっしゃいます。これは意図的ですか?」と訊かれました。「ええ? そんなこと考えもしていませんでした」と私が答えたら、リストアップしたのを見せてくれた。『ジュリアス・シーザー』は男の政治と戦争の世界。ガシッとした言葉を探しているうちに四字熟語が多くなっていったんでしょうね。ただそれはまったく意識していなくて、おそらくそのほうが効果が出るからそうしたのだと思います。もう一人は日本人の翻訳の中でも特に坪内逍遥の研究をしている方だけど、漢字にルビを振るということに興味を持っているんです。ルビのことを質問された。たしかに“明日”と書いて、ここは「あす」と読んでほしい、ここは「あした」と読んでほしいと思う時にはルビを振ります、と。更にその“明日”という言葉自体も「明るい日」と、漢字自体に意味がある。つまり日本語では漢字そのものが詩になっている。シェイクスピアの翻訳をする前に、現代劇はたくさん訳したのですが、それは意味だけの変換だから、なるべく私たちが普段使う日常語で硬くない言葉を探すだけでよかった。シェイクスピアは意味とイメージと音、三つの要素をすべて含んだ表現を日本語に置き換えなければいけない。台詞の語尾もa、e、i、o、uのどの音で終わらせるかということを考えるようになった。「……だ」、つまりア音というのはすごく強いから遠くまで響く。だけどウ音は発語者のところに戻ってしまう。

——『ジュリアス・シーザー』は全編が命令口調だからそういうことが活かされる。でも坪内逍遥の翻訳は文語表現で硬い感じがします。翻訳口調にどうしても馴染めない。松岡シェイクスピアの面白さは、繊細なニュアンスが息づいていること。オフィーリアがなぜ狂うのか、ひとつの行間が伝える世界の深さ、美しさが役者に伝わっていく。

松岡 あれだけ饒舌な作家が、肝心なところを書いていない。そこは演出家や役者に任されている。ケネス・ブラナーの演出ではオフィーリアは妊娠して拘束衣を着せられて地下に閉じ込められている。そうも読めるので、そこまでやっても誰も文句は言えない。けれど、ハムレットとオフィーリアがプラトニックとしても成り立つ。ただ、もう寝ているという解釈の方に寄っていきたくなるのは、狂ったオフィーリアの歌があるからなんです。「あなたが私を抱く前に、夫婦(めおと)の約束したくせに」、男の返事は「お前の方から抱かれにこなきゃ、きっとそうしていたものを」と歌う。

イッセー シェイクスピアが生きていた時代は女の子を男の子が演じたと聞きます。オフィーリアの役というと10歳とかそんなものでしょうか。

松岡 もう少し上ですね。『ロミオとジュリエット』のジュリエットの年齢は「あと2週間で14歳」と設定されている。私の持論なんですけど、あんな細かい指定は当時のジュリエット役の少年俳優の年齢を念頭に置いたものだと思うんです。

イッセー なるほど。当て書きですね。

松岡 そう、やっぱり劇作家が当て書きするのは、自分が創作する人物と演じる役者の共通項というのをたくさん作ってあげればそれだけ入っていきやすいからじゃないですか。

イッセー 僕も乳母は絶対そうだと思う。達者な役者さんが演じたのに違いない。

松岡 あれは、大人の男の役者で、元女役もやっていた役者だと思う。

イッセー マクベス夫人もそうですか?

松岡 マクベス夫人を演じた少年俳優とクレオパトラを演じた少年俳優は一緒だと思います。時期的に近いし、成熟した女性を演じられる少年俳優が居たのではないかと。

イッセー 少年なんだ。すごいね。ガートルードは?

松岡 ガートルードも少年俳優。大人になりかけの少年俳優というのは、男装のヒロインをやらされた。『夏の夜の夢』のヘレナは背が高い“painted maypole”、私は「塗りたくった細柱」と訳した。そんな背が高いのと、一方ハーミアは「どんぐりだ、ちんちくりんだ」と言われている。『十二夜』だとヴァイオラは少年俳優でずっと男の子、小姓でしょう。オリヴィアの方は女伯爵で、本当に若い女の子のように見える子。きっと、声変わり寸前で背が伸びちゃって、普通の女の子はできないけど演技力はあるという子に男装する役を当てていたんだと思う。そう思って読んでいくと面白いんですよ。劇団のいろんな事情や状況みたいなものが浮かび上がってくる。

イッセー なんだか面白くなってきたぞ。

松岡 イッセーさんの人形劇をネットで見ました。すべてイッセーさんが作っていらっしゃる?

イッセー そうです。あの百人隊長、いいでしょう。どんどんクビになっていく兵隊たちがかわいそうでね(笑)。シェイクスピアの描く舞台は大きな宮廷社会。ヒエラルキーもあるでしょう。その悲哀を描きたい。絵もその作品を作る手がかりなんです。主人公たちが一人歩きするような感じで物語を人形に託していく。人形は私の中では結構ランクが上で、自分では演じられない、自分では顔をこうは変えられない世界を扱っているというか。

松岡 人形の材料はなんですか。

イッセー 樹脂粘土です。乾きやすくて軽い。色はアクリルで塗ります。たとえばコーディリアは気が強く融通が利かなさそう。そうやって僕は物語を自分に近づけていった。松岡さんはシェイクスピアの世界には最初から入ることができました?

松岡 もう難しくて。弾き飛ばされっぱなしでした。

イッセー 何か舞台を観て、これは絶対自分で訳したいと思ったとか?

松岡 いや、学生の時演じたことはあっても、訳したいなんて夢にも思いませんでしたよ。でもシェイクスピアはとにかく観て面白い、聴いて素敵、というので、ずっと観客であり続けるだろうと思っていたんです。

第3回はこちら


『シェークスピア・カバーズ』
3,520円 (うち税 320円)