FROM EDITORS「追想の旅」

一月のはじめ、かつて朝日新聞で記者をされていた外岡秀俊さんの死を新聞記事で知った。亡くなったのは昨年の12月23日、享年68。

外岡さんとは沢木耕太郎さんの紹介でお目にかかったことがある。1980年代後半のことだった。食事を一緒にしたと思うが、どこでどうしたのかはあまり思い出せない。覚えているのは二つ、一つは外岡さんはまだ社会部の一記者で、日々裁判の傍聴で忙しいと言っていたこと。この後も新聞社に戻って仕事だと笑った。

もう一つは同じ新聞記者として疋田桂一郎を尊敬しているとその名を挙げたことだ。 「疋田さんこそ、公正な真水のような文章を書いた」と言った。外岡さんは新聞の役割と責任について思いを巡らせるように沢木さんに話した。

僕が疋田桂一郎の名を知ったのは高校1年の時だ。朝日新聞日曜版の連載で 「世界名作の旅」というコーナーがあった。毎回世界文学の中から一作品を記者が選び、作品の成り立ちや歴史、その地に息づく人々といった様々なテーマで紹介するというものだった。「ロシア篇」では、ドストエフスキーの『罪と罰』が取り上げられた。大学を除籍された貧乏青年ラスコーリニコフは、「選ばれた非凡人」という選民意識を持っていた。故に一般道徳に反してもいいと考え、悪名高い高利貸しの老婆アリョーナを殺害し、その金を社会のために役立てるという計画を立てる。原作ではラスコーリニコフの下宿から金貸しの老婆の門口まできっかり730歩であると書かれている。記者はペテルブルグの街の在り方こそこの作品の本質だといわんばかりに、実際に夏のペテルブルグの街を歩いてみる。しかし何度道を変えても原作通りに歩くとどうしても1,000歩かかってしまう。果たしてそれはなぜか。

推理小説を読むように僕は記者の眼差しに釘付けになった。その記者が疋田桂一郎だった。疋田さんの『罪と罰』論の影響か、外岡さんは同じく朝日新聞の「世界名画の旅」という日曜連載陣に名を連ね、クリムトの「接吻」について書いた。

一悦楽に沈む女性は、そのつま先を絶壁の端にかけ、かろうじて現世にとどまっているかに見える。花園が途切れる先に広がる金色の奈落——

外岡さんはクリムトが生きた同じ世紀末ウィーンで画家を目指したのがアドルフ・ヒトラーだったと、現実を覆う都市の光と影を生きたニ人を重ねる。画家になれなかったヒトラーのコンブレックスはその後何を生んだのか、読者は奇妙な時代の符号を考える。

外岡さんに二度目に会ったのはそれから1カ月後、原稿の依頼をした。忙しい、ごめんなさいと無下に断られた。なぜ断わられたのか、帰路に考えた。新聞記者が書くための予算も土壌もSWITCHにはまだないのかもしれないと、無念に思った。

疋田さんの730歩の結論は意外にあっさりとしたものでラスコーリニコフは180センチを越す大男で一歩が大きいと推理した。その結論はわかりやすいがその先がない。「事実は小説よりも奇なり」ということはそうそうにない。新聞記者と作家を分けるものとは何か。いつか自分も一つの作品のために追想の旅をしたいと思った。嫉妬とは言いたくない瑣末な思いがほんのわずか心を打った。

スイッチ編集長 新井敏記