1982年12月シンガポールを訪れた。知り合いがこの年の8月からこの地に移り住んでいたので、その人のところでニューイヤーを迎えようとした。亜熱帯気候のこの街では冬でも夕方になると決まって激しいスコールに見舞われた。夕方の混雑時、地下鉄もなく、マーケットのヤオハンの前には長蛇の列が続くも横柄なタクシーが自分の行きたい方向の客を選んで乗車拒否を続けていた。夕餉の支度を急ぐのかスコールの30分をどこかでつぶすことができず、人々は忍耐強く待つのに慣れていた。雨を喜ぶのは路肩に植えられたティリーフやジャスミンの花だけだった。
港の埋め立てやニュータウン開発構想はまだ先のこと、クリフォードピアの前にラッフルズホテルが悠々としてあった。19世紀、この国がイギリスの植民地だった名残をこの白いコロニアルの建物は色濃く留めている。儚くして堂々と、このホテルが憧れだった。しかしシンガポール在住の欧米人や欧米人旅行者の社交の場として設立されたこのホテルはアジア人はなかなか立ち入れない場所であった。だからバーに入って一瞬気分を味わうも居心地は悪かった。ましてやホテルのバーが発祥と言われている「シンガポールスリング」は、甘すぎて僕には好きな飲み物ではなかった。
ホテルのロビーには華やかだった頃の面影を伝えるようにダンスパーティに興じる欧米列国の紳士淑女の姿があった。ロビー脇に宿泊者のサインを見ることができた。アンドレ・マルロー、ギャヴィン・ヤング、サンセット・モーム、ジェームズ・ミッチェナー、ジョゼフ・コンラッドなどそうそうたる作家たちが名を連ねていた。
半世紀後、創作の秘密の場所は変わり、このホテルは投資の対象となり開発によって高層ビルの谷間の憩いを提供する場所を目指し、今は工事の真っ最中だった。けたたましい音が響き渡り、広々としたテラスで「スローボートで中国へ」や「闇の奥」や「月と六ペンス」の作品に思いを馳せる人もなかった。このホテル、次は中国からの豪華客船で押し寄せる人々を待つのだろうか。
スイッチ編集長 新井敏記