汚く、暗く、見つけにくいという公共のトイレのイメージを一新したのが、渋谷区のTHE TOKYO TOILET(以下TTT)だ。TTTの清掃員平山を主人公にした映画『PERFECT DAYS』は、2023年5月、 第76回カンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を役所広司さんが受賞するという快挙を達成した。日本人の俳優としては実に19年ぶりとなる栄誉とともに、世界中がTTTに注目していった。本作の限定パッケージ版の帯に、役所広司さんはこう言葉を寄せた。「映画は、他人の痛みを感じる心を育ててくれるものだと思います」。映画から花開いた果実は一冊の絵本になった。絵本のタイトルは『ともだちの木』
映画の原点
—— 映画『PERFECT DAYS』をSWITCHは「すばらしき映画人生! ヴィム・ヴェンダースの世界へ」という特集で紹介し、TTTの牽引者であり本作のプロデューサーである柳井康治さんと、脚本を担当した高崎卓馬さんに映画へ至る過程を語っていただきました。そして、そのTTTから生まれたもうひとつのプロジェクトが、この12月『ともだちの木』という絵本になった。木をモチーフにしたヴィム・ヴェンダースの原案をきっかけに高崎さんが紡いだ物語とは、いったいどういうものか。発行人である柳井さんの思いも含めて、お2人にお話をお訊きできればと思います。
高崎 映画を作っている時からずっとそうなのですが、雪だるまを2人で押しているような感覚があるんです。柳井康治さんがTTTという雪だるまを作って、一緒に押していくうちにどんどん大きくなって、ヴェンダース監督や役所広司さん、たくさんの仲間たちと転がしていく。それが今もまだ続いている感じです。映画という雪だるまからいろんなものがコロコロと増えていくんです。今回の絵本も映画と同じように、それを作ると決めて進めていたわけではなくて、何かに導かれるように自然とそうなっていきました。どこまで転がるのか自分でもわかっていないぶん、これからが楽しみですね。
柳井 雪だるま。なるほど。TTTから派生した映画作りの行程は、僕も高崎さんが言ってくれた感覚に近いものを感じていたんです。ただ、この絵本の中に込められているヴェンダースさんの気持ちや高崎さんの綴った文章は、映画より前に生まれていたものでした。『PERFECT DAYS』の脚本が出来る前、ヴェンダースさんが来日した際のシナハンの中で、彼はひたすら木の写真を撮っていたことがあるのです。大きな木を見つけると、その前でしばらく立ち止まったりしていた。僕はヴェンダースさんに「やっぱり木に魅かれるんですね」と声をかけたこともある。「もしかしたら木を物語の大きな軸の一つとして考えているのですか」と問いかけることもありました。その後、高崎さんがベルリンに行った時に、ヴェンダースさんにとって大切な木、ヴェンダースさんはそれを「ともだちの木」だと言って紹介してくれた。だからというわけではなく、高崎さんは映画の主人公の名前を「平山正木」と付けた。次に物語の中で、木漏れ日がとても重要なモチーフとして出てきた。“木”という存在が本当に発想の原点になっているんだと感じていました。そんな、『PERFECT DAYS』という映画が生まれた最初の部分を、映画が公開された後ではあるけども、もう一度あらためて形にしようという思いから、絵本の構想が生まれました。まさに雪だるまを転がしていった先に新しい道があって、それがまたいくつかに分かれて、という流れはありながら、実は発想の源はこちらの方が先にあったことを伝えたいという思いがあるのです。
—— 「場所を見なければ何も撮れない、映画は場所によって感情を突き動かされるものだから。TTTの特徴は17のトイレ全てが違うところだ。一つひとつのトイレがまるで性格を持っているかのように見える。どの場所でもトイレを人々が必要としている。TTTのトイレがその場所のために存在している。どれも本当に魅力的だった」と、2022年5月、ヴェンダースは実際にTTTを見たことで、映画作りを始めた。
高崎 実際、シナハンで僕はヴェンダースというひとが今の東京をどう見るのかを楽しみにしていました。それはどこか批判的に見てもらいたいという気持ちもあったんです。でも僕の思惑とはまったく関係ない場所でヴェンダースは立ち止まって、そこにはいつも木がありました。当時そこにどのような意識があったのかはわかりませんが、結果的に木はこの映画にとってとても重要なものになりました。よく考えると主人公の人生はまるで木のようで、彼の日々に起きるものは風のようで、そして枝や葉が揺れて木漏れ日をつくる。その木漏れ日がこの映画そのものになっています。トイレが舞台で、清掃員が主人公で、と決まった最初の段階できっと監督のなかで“東京の木”は必然的なものになっていたんでしょうね。
柳井 そう思います。平山さんが住むアパートを東京スカイツリーの近くにこだわったのも、その理由の一つだったと思うんです。スカイツリーも言うなれば木じゃないですか。究極の人工の木としての存在感をヴェンダースさんは東京の今として感じ取っていて、この物語の主人公がその近くに住むことへの強いこだわりを持っていたように思います。実際シナリオハンティングで平山さんの住むアパートを探す時も、「絶対に窓からスカイツリーが見える部屋にしてくれ」と言っていましたし。平山さんはスカイツリーを見て、今日も頑張ろうと、車を運転して出勤していく。ヴェンダースさんの中に、木はそうした役割を果たすものだという意識があったんだろうなと思います。映像の編集が最終段階に差し掛かった頃に僕は初めて2時間を超えた本作の映像を観たのですが、その時にあらためてこの映画はヴェンダースさん自身であり、役所さん自身であり、高崎さん自身であり、僕自身でもあるんだなと感じたんです。作品に息づいてるのは、根本的な精神、利他的というか、「自分のことよりも他の人のために尽くす」という思いでした。そしてヴェンダースさんに僕たちは、ともだちの木としてたえず傍にいるかけがえのない存在があるという充足した精神状態でいることが大切なんだと知らされたんです。おそらくヴェンダースさんは、TTTのプロジェクトに息づいている精神も、それと似たものなんじゃないかと思ってくれたのだと思う。そういう面では、この絵本も僕の中ではTTTプロジェクトとしっかり繋がっているんです。公共のトイレが綺麗な状態に保たれている東京であってほしいとか、日本も世界も調和を持った世界であってほしいという思い。絵本『ともだちの木』の少年が木を育てる時の気持ちがつながって、絵本を読んでいただける方に、「自分もともだちの木を探してみよう」と思ってもらえるといいなと思います。そういう気持ちがなかったら、TTTのプロジェクトは成立していないだろうと感じます。そして映画『PERFECT DAYS』も生まれていない気がするのです。TTTの原点がこの絵本に詰まってる気がしています。
平山さんが教えてくれたこと
—— 映画の中で平山さんはこんなことを語っていました。「この世界は、 ほんとはたくさんの世界がある。つながっているようにみえても、つながっていない世界がある」。人と自然を繋ぐ、目に見えない世界の尊さを感じる言葉でもあります。実際に平山さんに言われたら「本当にそうですね」と頷いてしまうんじゃないかと。この言葉は『ともだちの木』に通じる大切な心を表す言葉であり、『PERFECT DAYS』の原点でもあると感じました。
高崎 そうですね。やはり他人にはわかり得ない部分が絶対にあって、わかると思ってしまうのはむしろ不遜だと思うんです。わからないからこそリスペクトしなければいけないし、リスペクトすることによって保たれる関係がある。そう考えると、木も同じなんです。ヴェンダース監督と一緒に映画を作っていて、木をよく見るようになって、光や影をより意識することで自分が少しずつ変わっていったように思えるんです。実際に目に見える形で自分自身の中で変化があった。それは、トイレをすごく綺麗に使うようになったこと。康治さんと試写の時、一緒にトイレに行ったことがある。水が跳ねたら、スッと紙タオルで縁を拭いている康治さんを見た時に小さな感動を覚え、同時に「一緒だ」と思いました。僕も自然とトイレを清潔にするようになっていたんです。汚したら絶対に綺麗にして出るようになりました。それともうひとつ変わったことがあります。歩いていて木に触れるのが習慣になりました。気になる木があると触るようになった。元々僕はそういう人間ではなかったんですけど、平山さんから色々教えられていったように思います。
柳井 そういう意味では僕は人間力がまだまだ足りないのかもしれない(笑)。僕の場合は、利他の気持ちとか、先ほど言ったような“ともだちの木”を持つこと、感じることで、他人に優しくなれたり、世界が少しいい方向に変わっていくのでは……みたいな。その考え方は、TTTのプロジェクトや、映画作りを通して僕の中で育っていったのかもしれないですね。
—— この『ともだちの木』の物語は、平山さんが清掃員になるまでの幼少期の話としても読めるように思います。
柳井 そうですね。ヴェンダースさんが監督になるまでの話かもしれないし、高崎さんが映画を書き上げるまでの物語かもしれない。僕がTTTを始めるまでの気持ちなのかもしれない。なんとなく「こんな気持ちを心にずっと持っているといいんだ」という感覚だと思っています。トイレを綺麗にしてほしいと僕が声を大にして言ったところで、 使う方がそう思ってくれない限りは変わらない。人から強制されて綺麗にするのではなく、次の人のこと考え、誰かがこれを掃除してくれているのだと思えば、自然と注意して使うし、綺麗に使うことを考える。それだけで少しはいい方向に世の中が変わるきっかけになるんじゃないかと思っています。誰もが“ともだちの木”を持たなければいけないとは思わない。自然の木でなくても、スカイツリーでもいい、ぬいぐるみでも本でもなんでもいいと思うんです。何か大切な存在を持つことで、少し自分が優しい気持ちになれたり、自分の思っていることを素直に語れたりするものがあったらいい。それが平山さんを通した、ヴェンダースさんと高崎さんからの呼びかけだと思っています。
つづく 後編は「SWITCH vol.43 no.1(1月20日発売)」に掲載予定です
高崎卓馬 1969年生まれ。クリエイティブディレクター、小説家。数々の広告キャンペーンを手がけ、JAAAクリエイターオブザイヤーを3度受賞。映画『PERFECT DAYS』では、ヴィム・ヴェンダースとともに共同脚本とプロデュースを担当。著書に小説『オートリバース』、絵本『まっくろ』など
柳井康治 1977年生まれ。2012年にファーストリテイリング入社。2020年よりグループ上席執行役員。個人プロジェクトとして、THE TOKYO TOILETを発案、出資、実現する。企画からプロデュースまでした映画『PERFECT DAYS』は世界90カ国以上で公開され大きな話題となる