現在発売中の『SWITCH』2019年11月号で特集した、是枝裕和監督による新作映画『真実』。その制作のきっかけとなったのは、2011年に是枝が東京で行ったジュリエット・ビノシュとの対談だった。「女優とは何か?」「演じるとは何か?」という、『真実』のテーマとも深く関わる貴重なやりとりが記録されたその対話を、SWITCH ONLINEにて特別に公開。
ピラミッドではなく、サークルが存在する
是枝 さて、そろそろビノシュさんの話に戻しましょう。ちょっと『ショコラ』(*21)についてお聞きしたいのですが、この作品はある種のおとぎ話ですよね。ご自身の演技設計というのは、作品のジャンルやテイストによってどのくらい変わるものですか。コメディならこういう演技をしてみようとか、作品世界に自分をどのくらい合わせていくのでしょうか。
ビノシュ 『ショコラ』は寓話的な作品ですが、そのために何か演技の仕方を変えたという記憶はないです。心がけたのは、1950年代の設定だということくらいかな。ちょうど撮影に入る前に娘が生まれたので、娘に捧げるというふうな気持ちで作品に参加しました。また『ショコラ』には「遺産」というテーマが含まれています。娘がおばあちゃんから受け継いだ円板みたいなのを壊すというシーンがある。そこから私は「そういうものにとらわれないで、あなたの人生を生きなさい。過去から解放されなさい」というメッセージを受け取りました。
是枝 ジプシーの青年が店の戸口に立ったとき、「Come in.(入りなさい)」と2度ビノシュさんが声をかけますね。大好きなシーンなのですが、2度目の「Come in.」の前に、そんなこと気にしないで入りなさいよ、という感じが窺える。あのふたつの「Come in.」で、同じ流れ者としての気持ち、自分よりあとから村にやってきた人に対する思いやりがよく出ているなと思いました。
ビノシュ (青年を演じた)ジョニー・デップ(*22)が扉の前に立っていたら、「Come in.」というのは何のリスクもないと思うんです(笑)。
是枝 なるほど(笑)。
ビノシュ 『ショコラ』では私は主人公のショコラティエ役を演じたわけですが、撮影前にはチョコレートをつくる店で修業しました。映画のなかで、それぞれの登場人物たちはそれぞれ違うチョコレートを選びます。つまり、彼ら一人ひとりの感情的、心理的なものを含めて、チョコレートをつくらなければいけなかったんです。それで私はジョニー・デップ(が演じた青年)に関しては3つの味のチョコレートを準備したの。3回食べると知っていたから。でも実はジョニーはぜんぜんチョコレートが好きじゃなかったのよ(笑)。撮影中、彼のそばに洗面器が置いてあって、私がつくったとても高価なチョコレートをテイクごとに吐き出すんです。映画ではチョコレートの美味しさや効能を描いていますが、最後までジョニーをチョコレート好きにさせることには成功しなかったわ。
この撮影でとても心地よかったのは、ラッセ・ハルストレム(*23)監督が絶対に「ノー」といわない人だったことね。「テイク、7回目やってもいいですか」といっても「イエス」といってくれる。監督が私たち役者にとことん付き添ってくれたんです。強硬な手段でコントロールしようというのではなく、私たちに伴走してくれた。だから撮影の喜びというものが常に現場にはありました。しかも公開前に作品を観せてくれて、「もし君の嫌いなカットがあったらいってほしい」といったのよ。とても驚いたわ。
是枝 すごくミーハーな質問ですが、ジョニー・デップはどんな役者でしたか。
ビノシュ とても演技のしやすい人だったわよ。役者同士のエゴのぶつかり合いなんていうのはぜんぜんなかった。ただ、彼の演技の仕方というのはちょっと変わっていて、いつもイヤホンで音楽を聴いているんです。そのためのスタッフというのがひとりいて、衣装のジャケットの裏にマイクをとりつけて、ジョニーが「エルトン・ジョンのトラック3を流してくれ」とか「モーツァルトのピアノ協奏曲第5番をかけてくれ」とかマイクに指示すると、その音楽を流してくれるのよ。
是枝 何それ?(笑) 本番中はまさかやらないよね。
ビノシュ 本番中もやります。
是枝 ホントに!?(笑)
ビノシュ 「君も1回やってみたらいいよ」といわれたの。彼にとっては非常にスペシャルなドラッグのような感じだと思うけど(笑)、私はぜんぜん好きになれなかったわ。音楽を聴き過ぎちゃうから。でもおかげで私は沈黙を必要とする女優なんだということを確認できました。撮影現場には本当にたくさんの人がいるし、騒音がひどいときも多々あります。そういうときに、自分の心に内なる沈黙をつくり出して演技に集中しなければならない、とあらためて思いましたね。私は難しいシーンの前にはそのシーンを準備している技術スタッフのところにいるようにしています。そうすると、少しずつシーンに没入できるし、「アクション!」という声がかかったときには、すでに技術スタッフと私との間にひとつの絆というものが生まれている。ピラミッド型のヒエラルキー的なものがあるのではなく、サークルみたいなものがあって、そのなかに自分がいるという実感が味わえるんです。もちろんそれは映画にもよるんだけど(笑)。でも逆に、さきほどの『夏時間の庭』の場合は、私はあまり愛されてない、ちょっと反抗的な娘役だったので、撮影現場では自分が除け者にされたような、周囲の人たちが自分にとっては異国人のように感じるというポジションをわざと選びました。
是枝 ひとりだけ周囲になじまない服を着て、なじまない髪の色をしていましたよね。印象派の絵のようななかに、オレンジのパーカーみたいなのを着てポンと座っている。あの色を選んだのは監督ですか、それともビノシュさん?
ビノシュ 監督と一緒に、とても人気のあるフランスのデザイナーに会いに行ったんです。そのときに彼女が着ていた服装を真似しました。
是枝 逆に『ショコラ』ではビノシュさんは全編通して赤を着ていらっしゃるんですが、監督から何か説明はありましたか。
ビノシュ あまり意識してなかったわ。
是枝 チョコレートの黒と、チョコレートをつくっているショコラティエの赤というのが、映画の世界観を非常にうまく醸し出していたと思うんだけど。
ビノシュ あら、だったら今日も赤を着てくればよかった(笑)。
是枝 侯孝賢の映画ではご自身の服を着られていた?
ビノシュ ええ、自前の服でした。撮影前に侯監督が私の家にやって来て、ワードローブを見ながら試着をして決めたんです。これとこれを合わせようって。
是枝 つまり、すべては監督次第ということですね。
ビノシュ そのとおりです。
是枝 最新作『トスカーナの贋作』のキアロスタミはどうでしたか。衣装のことだけではなく、キアロスタミと一緒に映画をつくるきっかけからお聞きしたいんですが。
ビノシュ カンヌ映画祭などでキアロスタミ監督とお会いすることが何回かあったんです。そのたびに彼が住んでいるテヘランに遊びにおいでといわれたんだけど、中東は政治的な問題がいろいろあるから、勇気がなくて。でもあるときついにビザを取って、会いに行きました。ところが飛行場に着くと、たくさんの記者や写真家がいて、ビデオカメラも並んでいたの。ビックリして、監督に「どうして、プレスの人たちを呼んだの? プライベートで来たのに」といったら、「そうなの? 僕は君が彼らを呼んだのかと思っていたよ」といわれたんです。
理由はあとでわかりました。私の乗った飛行機にたまたま新聞社の記者がいて、同僚に「ジュリエット・ビノシュが乗っているから、飛行場で待ちかまえていろ」と号令をかけたんです。おかげで翌日『ル・モンド』のようなイランの新聞紙面に「アッバス・キアロスタミ、ジュリエット・ビノシュと一緒に撮影開始!」というスクープが流れてしまった。企画なんてまったくなかったのにね。しかも翌日から新聞記者たちのインタビュー依頼が殺到したのよ。私たちは仕方なく2日間を取材にあてました。「まだ企画はないんです。映画なんてまったく影、形もないんですよ」とみんなにいうために。
そうして取材を終えた夜、キアロスタミ監督がある話を聞かせてくれました。イタリアで知り合った女性が自分のことを夫だと思って演技をしはじめたという話で、彼女がブラジャーをどう外したかということまで1時間かけてこと細かに語ってくれたの。目を丸くしてその話に聞き入っていると、最後に監督が「僕のいったこと、信じる?」と。「もちろんよ。信じるわ」と返すと、「実はぜんぶ噓なんだ」っていったのよ(笑)。本当に笑っちゃった。それでこの映画ができたというわけなんです。
是枝 いまの話を聞くと、空港に記者を呼んだのはキアロスタミだな(笑)。この話をビノシュさん主演で実現するためにやったんだ、きっと。そのぐらいのことはする人だからね(笑)。この作品には「オリジナルとコピー」とか、「演じるとは何か?」とか、キアロスタミの映画論という側面がありますね。すごくおもしろく拝見しました。これはどのくらい脚本どおりですか。即興というのはあったの?
ビノシュ 即興はほとんどありません。
是枝 ないんだ。かなりの長回し、4分近いカットが何回も出てきましたが。
ビノシュ 台詞はまるまる暗記しなければいけなかった。
是枝 ビノシュさんと相手の男性がふたりで歩きながら、結婚しようとしているカップルの脇を通って道へ出て、自分の息子についての文句をいいはじめますね。そのときに今度は赤ちゃんを連れた人とすれ違って、息子の悪口をいっている最中なのに、急に表情を変えて「あら、赤ちゃんだわ」というんですが。
ビノシュ あ、あれは即興です。
是枝 なるほど。そこが即興だったのか。
ビノシュ 前のテイクにはなかったんですが、次のテイクで泣いている赤ちゃんを連れた人とすれ違ったので、ちょっとやってみました。
是枝 あの赤ちゃんはエキストラではないの?
ビノシュ 村の住人です。その村の住民にエキストラとして参加してもらったんです。
是枝 なるほどね。即興なのか台詞なのかというのが、キアロスタミのこの映画のテーマであり、全編そこへ向かっていますよね。ただ、あそこは即興じゃないかなと思ったので訊いてみたんだけど、当たってよかった(笑)。
ビノシュ もう1カ所あるの。私が運転していると、道の真んなかに年配の女性が出てきて、「なんなの、どうかしてるわ!」という、あそこも即興。
是枝 そうなんだ。
ビノシュ 運転シーンは私自身が運転したんです。目の前にふたつカメラがあって、2、3センチくらいの視覚しかなくて、スタッフも3人乗り込んでいたので、「もし間違えてハンドルを切ったら、みんな死んじゃう」と思って、非常に責任の重いシーンでした。あまりにも緊張したせいで、撮影後に腰が痛くなっちゃって。おそらく責任の重さで痛くなったんだと思うけど、まさかそんなことが私の身体に起こるとは思ってもみなかった。しかも、戸外が40℃にもかかわらず、音がするからエアコンをかけることができなかったんです。とにかくあまりにも車内が暑くて、カメラがいったん止まってしまったくらい。スタッフがカメラの下に氷のパックを置いたんだけど、集中しすぎていて気づかなかった。私が運転しながらできた唯一のことは、「事故が起こりませんように」と祈ることだけでした。撮影現場というのは、ときとして「どうやって生き延びればいいか」という瞬間も訪れますよね、監督(笑)。
是枝 そうですね(笑)。今日は長い時間、楽しいお話をありがとうございました。
<注釈>
*21 2000年製作のアメリカ映画で、日本は01年公開。フランスの小さな村に謎めいた母娘がやってきてチョコレート店を開店、やがて村の雰囲気も開放的になっていくのだが……。主演はジョニー・デップ、ジュリエット・ビノシュ。
*22 アメリカの俳優・ミュージシャン。1963年ケンタッキー州生まれ。84年『エルム街の悪夢』で初出演。90年に主演した『シザーハンズ』が大ヒットとなる。代表作に『ギルバート・グレイプ』『デッドマン』『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズ、『チャーリーとチョコレート工場』、『チャーリー・モルデカイ 華麗なる名画の秘密』など。
*23 スウェーデンの映画監督。1946年ストックホルム生まれ。75年に監督デビュー。85年の『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』がアカデミー監督賞にノミネートされ、ハリウッドへ。代表作に『ギルバート・グレイプ』『サイダーハウス・ルール』『カサノバ』『マダム・マロリーと魔法のスパイス』など。
SWITCH vol.37 No.11 特集 是枝裕和 嘘という魅力的な魔法