BD翻訳家・大西愛子さんインタビュー 第3回

日仏友好160周年を迎え、秋ごろからNHK にて国内でも人気の作品『ラディアン』(ユーロマンガ刊)がアニメ化するなど、ますますの盛り上がりを見せるBD。今回お話を伺うのは、クールな黒猫私立探偵が主人公のハードボイルドマンガ『ブラックサッド』などの翻訳を手がける大西愛子さん。もともとマンガには詳しくなかったという大西さんがBD翻訳に携わることになったきっかけや、スイッチ・パブリッシングから刊行中の村上春樹さんの短篇をBD化した「HARUKI MURAKAMI 9 STORIES」について語っていただきます。

大西愛子
<プロフィール>
大西愛子(おおにしあいこ)
1953年生まれ。翻訳家。主な訳書にステファヌ・マルシャン著『高級ブランド戦争 ヴィトンとグッチの華麗なる戦い』、ジョルジュ・ルルー著『グレン・グールド 孤独なピアニストの心象風景』をはじめ、ニコラ・ド・クレシー『氷河期』、マルク=アントワーヌ・マチュー『レヴォリュ美術館の地下』、ギベール&ルフェーヴル『フォトグラフ』、エンキ・ビラル『ルーヴルの亡霊たち』などBDの訳書も多数。カナレス&ガルニドの代表作である『ブラックサッド』シリーズについては2005年の初版から翻訳を担当。

第3回 『ブラックサッド』翻訳秘話

ファンの皆様、お待たせしました。黒猫の私立探偵が数々の難事件を解決する人気BD『ブラックサッド』。その翻訳を手がける大西さんと、同作の出会いは偶然とも、運命とも呼べる巡り合わせがきっかけでした。

ブラックサッド

『ブラック・サッド』との出会い

——ここからは大西さんが翻訳されている作品『ブラックサッド』についてお話を伺いたいと思います。「ユーロマンガ」を主宰されているフレデリック・トゥルモンドさんから翻訳のお話をいただいたとお聞きしました。

大西 はい。フレデリックさんは日本にBDを紹介するために孤軍奮闘しており、さまざまなBD作品をいろいろな出版社に持ち込みしていました。その中である出版社の編集者の琴線に唯一触れたのが『ブラックサッド』だったそうです。その方が同作を翻訳する人間を探していたときに、たまたま目に付いたのが過去に別件でご挨拶をさせていただいた私の名刺だった。

——どこか運命的な出会いを感じますね。

大西 はい。まったくの偶然です。私は基本的にお仕事を断らないので、そのままお受けしたという感じです。でも、断らないというスタイルで、なにか悪い目にあったということはないですね。偶然お願いされた仕事や、たまたま人から紹介を受けた仕事を引き受けて、後々とても重要な出会いにつながった、ということが多々あるんですよ。

——巡り合わせが強いというか。

大西 運が強いんです(笑)。お仕事をお受けしたときはそんな感じだったので、『ブラックサッド』がどのくらいフランスで人気の作品かということはまったく知らなかった。作品を訳した後でフランスに旅行する機会があって、せっかく翻訳をしているから現地の様子も見てみようかと、書店に足を運んだんですね。そうしたら、『ブラックサッド』が並んでいて、書店員さんと「新刊でたんですね」なんて話していたら、「あんた好きなの?」って訊かれて。「いや、日本で翻訳をやっているんです」と答えたら「なんてラッキーな人なんだ!」ってびっくりされちゃって。

——そこで初めて『ブラックサッド』の人気を知ったんですね。初めて作品を読んだときはいかがでした?

大西 「なんじゃこりゃ」、ですね。動物に手足が生えている感じで。特に第1巻は世界観の紹介程度の内容でしたので、ストーリーもシンプルで「ふうん」という感じでしたね。
 
 

マンガ翻訳の“ルール”

——淡々と訳していった。

大西 そのときの担当編集の方もコミックを訳すという経験もあまりない方だったので、訳したものを全部吹き出しに押し込めばいいかといった感じだったんです。もちろん、私自身、もともと書籍の翻訳に携わっていたので“言葉を翻訳する”ということに関してはかなり力を注いでいました。作者のインタビューなどもかかさず読むようにしていましたし。けれども、マンガは言葉を訳せばいいというだけのものではないのですよね。見易さだったり、キャラクターに合わせたセリフだったりをもっと考える必要がありました。

——それは訳していく中で、ご自分で気付かれたのですか。

大西 ネットなどの評判や、翻訳の先生からの指摘ですね。ただ、それを反映させようにも1巻目の発売日が2巻目の校了日だったので、反映させられず。その後最初の出版社では3巻目を出すことはなく、フレデリックさんの「ユーロマンガ」で新たに『ブラックサッド』を刊行することになります。

——出版社が変わることで、環境にも変化はありましたか。

大西 「ユーロマンガ」はBDが大好きな人たちが集まって作るような同人誌というイメージから始まりました。なので、みなさんとてもマンガが大好きで。「ユーロマンガ」版ではデザイナーさんが入ったのですが、以前は文字を小さくしてでも押し込めていたセリフを、「文字が多すぎて入らない」という指摘をもらったりして修正をして。1巻、2巻に関してはほとんど訳し直しているため、旧版と新版では大きく変わっていると思います。

——どのような変化がありますか。

大西 例えば、「〜〜ではない」という訳。『ブラックサッド』はハードボイルドマンガのため、ちょっと主人公を気取らせて「〜〜ではない」なんて訳を入れたのですが、マンガでは「〜〜じゃない」の方が良いだろうとか。作業量としては大変でしたが作品が良くなるのならばと必死でした。

——その他に作品を訳す中で、何か気をつけている点などはありますか。

大西 シリーズものなので、ブレないようにしているところはあります。例えばキャラクターの一人称「俺」や「僕」は、巻ごとに違いがないよう気をつけています。あとは毎回『ブラックサッド』を訳す前は原尞さんやレイモンド・チャンドラーといった作品を読みます。

——モードチェンジですね。

大西 男性目線だし、私のボキャブラリーにない言葉を使わなければいけないので、雰囲気作りの一環として。特に“乾いた感じ”は意識しています。第1巻を訳したときに翻訳の先生に「もうちょっと乾いた感じが良かった」と駄目出しをされまして(笑)。

——難しいですね。

大西 “乾いた感じ”ってなんなのだろうと。日本語は難しいですね。
 
 

ディテールから紡ぎ出す作品の雰囲気

ブラック・サッド

——この作品を読んでいるとどこか音楽が聴こえてくるような不思議な印象を受けます。

大西 どの巻にも何かしら実際の音楽が出てきますね。特にジャズがテーマの第4巻は、本当に『サマータイム』の使い方が上手です。実在の曲が登場する際には、誰の何という作品なのかも書いてあるので、「どんな曲なのだろう」と実際に聴くようにしています。やはり訳す際の何かしらのとっかかりが欲しいので、そういったディテールに関しては極力当たるようにしていますね。作品に明確に登場しているもの、ネットに出ているインタビュー、現地での書評、ファンの感想などなど。ただ、やりすぎて訳が遅れることもあるのですが(笑)。調べていくとどんどん面白くなってしまうんですよね。終わりのない作業なので切りなく追求していけるんです。

——それは翻訳家にはよくあることなのですか。

大西 ありますね。先日も友人の英米翻訳の方がフェイスブックで、とある作品の「バレエのシーンがよく分からないので解釈を教えて欲しい」という投稿をしたんです。そのシーンはフランス語で書かれていたため、私も自分なりの考えをコメントしたのですが、もっと深読みする方がいて。そこからああでもない、こうでもないとフェイスブック上でみんなで白熱してしまって。肝心の投稿者の方は投稿したあとすぐに寝てしまったようで、朝起きてコメント欄で論戦が繰り広げられていたのを見て「えぇっ!」とびっくりしたそうです(笑)。

——知りたい欲求が強いんですね。

大西 そうですね、それがなきゃ無理です。
 
 

「BD作家」の頭の中

——大西さんの思う『ブラックサッド』の魅力とは。

大西 まず、絵でしょうね。『ブラックサッド』の絵は素晴らしいと思います。あと、これは作者の作画担当のフアーノ・ガルニドさん、シナリオ担当のファン・ディアス・カナレスさんも言っているのですが、この作品は私たちが文化的、伝統的に引き継いでいる動物へのイメージで遊んでいる部分が多々あります。たとえば「きつね=ずる賢い」というイメージがあります。作中、警官はすべてイヌ科の動物なのですが、その中に一匹きつねが紛れているんです。確かにきつねはイヌ科、だけどあのキャラクターは何かしでかすんじゃないかって読者はステレオタイプから想像できるんですね。

——作者のお二人にお会いしたことはありますか。

大西 ガルニドさんは今まで2度ほど来日されていてワークショップも開いています。私は通訳として同席させていただきました。彼のワークショップは「僕は動物を描いているのではない」という話から始まるんです。『ブラックサッド』の登場キャラクターはみんな動物なのでお客さんはびっくりするんですが、そんな様子をよそに彼はサラサラと猫の頭蓋骨をホワイトボードに描き始めます。そして、「猫の頭蓋骨はこのような仕組みで、ここに筋肉がつき、さらにこのように猫の顔が出来上がります。だけど、私が描いているのは人間の顔。人間の頭蓋骨はこうなっているので、これに動物の耳などをつけているだけなんです」と簡単にキャラクターを描いていくんですよ。

——骨格などがすべて頭に入っているからこそ、動きが滑らかなキャラクターが描けるんですね。

大西 彼が講演などでよくされる話で「動物を擬人化するには」というものがあります。彼曰く、四つん這いの動物が二足歩行で立った様子を描くのは、人間のそれとは異なるそうです。動物は二本足で立つときに踵を浮かせて爪先で立つ。けれども人間は二足歩行をするために、踵を地につけて立つ。動物をどのように立たせるかによって、描き方も変わってくるそうです。それが記憶に残っていたから、以前お会いしたときに、当時直立することで話題となっていたレッサーパンダの「風太」くんの写真を彼にあげたんですね。そうしたらものすごく喜んでくれて。

——ガルニドさんは動物がとても好きなんですね。

大西 大好きですね。あるワークショップでは動物が描かれたカードを配って、その動物で自分のキャラクターを描いてくれと言いました。すると、あるチンパンジーを描いた参加者に「あなたの課題はチンパンジーだったのに、ニホンザルを描きましたね」とおっしゃっていて。描いた本人はキャラクターにしてみればチンパンジーもニホンザルも変わらないと思っていたようなので、「動物園や図鑑を良くみて研究しなさい」と指導していましたね。そういうのを隣で訳すのはすごく面白いんです。

——もう一人の作者のカナレスさんとお会いしたことは?

大西 「海外マンガフェスタ」にいらっしゃったときに一度あります。そのときに彼はスペイン語でお話しされていたので、私は聴くだけでしたが。とても魅力的な方でした。カナレスさんはガルニドさんに比べて、少し内向的な方でしたね。彼の他の作品も読んだのですが、彼の作品は全般的に暗いものが多いですよね。

——作風とご本人の人間性に通ずるところがあるのですね。

大西 そういう点で面白いのがBD作家のエンキ・ビラルさん。あの方の作品は暗く、残酷なものが多い。絵柄もどこか荒廃した雰囲気を漂わせているのですが、ご本人はものすごく楽観的な方なんです。ご本人と話したときに「あなたの作品は全体的な雰囲気とはうらはらに、最終的にハッピーエンドになるのが不思議な感じがしますね」と話したら、「なんで?希望は大事だよ」と(笑)。作品を読んでいると悲惨な結末を想起させるのに、最後には「えっ?」と思うようなハッピーエンドが訪れる。こんな能天気な終わり方でいいの?と感じたり。

——作家さんは面白いですね。

大西 面白いです。本当に頭の中を覗きたい。
 
 
つづく