『風の電話』を藤原新也さんの歌で聴いたことがある。さちさんのレコーディングに立ち会ったときに試しに吹き込んだものだという。さちさんの歌声を聴いたとき、さまざまな人々がこの歌を歌い継ぐ光景が想像できた。亡き人を偲ぶ歌、藤原新也さんは亡き兄を想い、父を、母を想って歌ったという。まさしく『千の風になって』大槌版、歌はそれぞれの物語として歌い継がれていく。
「さてこれから何をするか、白紙なんです」
大久保さんの労をねぎらうと、彼がポツリと呟いた。
「ただ忘れないでいたい、忘れないでほしいということでしょうか。この震災で亡くなられた人が数多くいたことを。不動産業も廃業になってわたしには音楽しかないのです。むしろ音楽をやれということだと理解しています。そして、今わたし自身が音楽に助けられています」
『風の電話』のプロデューサー・大久保正人さんは東日本大震災で父を亡くした。家も流され楽器も失った。
3月11日、午後2時40分を回った。大久保さんの父は歯医者の診察台に座って歯の治療を受けていた。金曜日午前の診察、最後の患者だった。大きな揺れが起こり、診察室に防災警報が鳴り響いた。歯科医はすぐ彼に高台に避難するよう促した。しかし彼は診察台から立ち上がろうとはしなかった。
「わたしのことはいいから行ってください」
その頑さを後日歯科医から聞いたときに大久保さんは理解できなかった。歯の治療と真逆な行為に及んだのはなぜだろうか……、なぜ父はその時に死を覚悟したのだろうか……。
歯科医が医者のモラルとして患者を放って避難できるわけはなく、必死に説得を試みた。津波の第1波が迫っていた。2階屋の歯科医院の1階は診察室で2階は母屋になっている。歯科医の家族は3人、夫婦はまだ30歳すぎで妻は5カ月の乳飲み子をかかえていた。地震のとき、母子は2階で昼寝をしていた。その時、40メートルの津波が大槌町を襲った。歯科医は大久保さんの父を助けることは断念し、2階に逃げ込んだ。津波は浸水し家屋を飲み込んでいく。そして歯科医の家では5カ月の乳飲み子が犠牲となった。母の手からするりと赤子は流されていった。
「おやじが早く避難をしていたら、幼い命が犠牲にならなかったのに」
大久保さんは歯科医のもとに何度も謝罪をしに足を運んだ。歯科医の妻はまだ気持ちの整理ができていないのか、会うことは叶わないでいる。我が子を失った悲しみはけっして消えることはない。
「おやじは死を覚悟したんでしょうか、でも、でも赤ちゃんが犠牲になる必要はない」
さちさんが小さな声でこう続けた。
「ある消防士の方がいます。地震が起きてとっさに防潮堤の扉を閉めに行ったときに津波に襲われて、必死で扉にしがみついた。眼の前で建物も車も人も、波にさらわれていく。助けようともがいてもどうにもならない。そこにひとりの赤ちゃんが流されてきて、ひょいっと身体をつかむことができた。消防士は赤ちゃんを必死に抱きかかえていた。後で聞くと赤ちゃんの家族は全員津波で流されてしまった。消防士は思い悩んだ。はたして本当に助けてよかったのだろうか」
わたしたちは運命というものを知らずに生きている。必死でもがくようになぜここに生きているのか、大久保さんもまた探している。
スイッチ編集長 新井敏記