FROM EDITORS「悠々と糸を垂れる」

今から23年前、山田洋次監督の『男はつらいよ』の撮影に密着したことがあった。俳優笠智衆の取材で鎌倉に同行していった。

柴又の帝釈天の母屋の縁側に見立てた光明寺の仏庫裏の撮影だった。できるだけ笠智衆の自宅近くでというのが山田の配慮だった。

「じゃ、テスト行こうか」山田のよく通る声がした。その瞬間自信なく笠智衆は「もう一回台本を確認させてください」と声をかけた。

「何をおっしゃいます、さくらさん。私の恋の激しさときたら寅なんか、問題じゃありませんから……」

山田監督は笠智衆より強い口調でその台詞をなぞる。

「寅なんか問題じゃありませんでしたよ……。寅、なんか」

山田監督は少し休憩をとり、照明のスタッフと奥座敷の障子への光の映り込みを一段明るくするように指示をした。笠智衆は正座する足がしびれたのか、その場で立って足踏みをした。

「大丈夫?」山田監督が気遣うように声をかけた。

「誰か、イス!」

「イスはいりません」

「では本番いきましょう。照明はそのまま」山田監督の声が響いた。

笠智衆は深呼吸をして緊張を高めていく。「寅なんか」トラのラに熊本弁の独特のアクセントが微かに聴こえた。1925年大正15年、笠智衆22歳の時、大部屋俳優だった笠智衆はサイレントからトーキーに映画が変わる時に熊本弁を直せとよく言われていた。小津安二郎監督作品の第2作『若人の夢』にいわゆる通り抜けとして出演。初めて小津映画に名前が記されたのは『落第はしたけれど』、26歳の時だった。以来小津は精緻を極めた文体で清冽な水の流れのように淡々とした演技をする笠智衆に、その心象風景を託するように家族の在り方を問うていった。方言のコンプレックス、語彙を抑えた静かな演技は明治の男の生き方そのものだった。

「ぼくは60年以上も俳優をやっています。あっという間です。夢のようです。早いものです」

人間はこうも哀しく孤独なんだと伝えている俳優笠智衆、緒形拳がライバルと憧れ、吉永小百合が女・笠智衆になるのが夢と思い描く。笠智衆は山田洋次監督、渥美清主演の『男はつらいよ フーテンの寅』で御前様を初めて演じた。1969年のこと、その時渥美清は笠智衆になるのが理想と語った。思い出の中に悠々と糸を垂れるように映画は想いを今に繋いでいる。

スイッチ編集長 新井敏記