2015年12月9日、作家野坂昭如さんが亡くなった。享年85だった。
太平洋戦争中、神戸の空襲で養父を失い、妹を失う。『火垂るの墓』、『骨餓身峠死人葛』は戦争で失った人間の尊厳を教えてくれる。野坂さんには『戦争童話集』で共著もあるイラストレーターの黒田征太郎さんに紹介していただいた。野坂昭如、荒木経惟の『ノアーレ』の続き――見てきたこと、感じたことの山ほどの疑問を身体ごと現場に持ち込んだ雑誌を作ること。テーマは「忘れてはイケナイ物語─福島篇」だった。
2011年12月10日、冬の晴れた午後、永福町の野坂昭如邸に荒木経惟、黒田征太郎、そして特別に京都から瀬戸内寂聴を招いた。いつもは応接間で待つ野坂は玄関で遠路はるばる訪れた瀬戸内寂聴を迎えた。野坂の顔は赤椿の若々しい、沈思黙考する作家のそれだった。時を惜しむように荒木はシャッターを切り、黒田は絵を描いた。瀬戸内寂聴の紫法衣に午後の光が美しく射した。無垢な時間にときめいた。紫は最大の儀礼に用いる色だ。
日本経済新聞12月11日朝刊に、瀬戸内寂聴による野坂昭如の追悼文が掲載された。
「野坂さん、あなたが亡くなったと朝から電話がひっきりなしに入り、新聞社という新聞社から、あなたの逝去を知らせてきました。野坂さんの生前の思い出はどうかという質問と、追悼文を書けという話ばかりでした。すべての電話に同じことを答え、しまいには自分が機械になったような気がしました。ようやく電話が来なくなった時は、十四時半になっていました。
今日わかったのですが、あなたは八十五歳にもなっていたのですね。全くのおじいさんじゃありませんか。世の中では長命な方といわれましょう。野坂さんの随筆で、長命など望んだことがないとあったのを覚えています。私も全く望みませんでした。それなのにいつの間にか九十三歳にもなっています。昨年大病したのに、死に損なってまだ生きています。でも長生きしている自分をめでたいとか、幸せとか喜んだことは一度もありません。野坂さん、あなたもそうでしたね。
(中略)
あの日は、あなたからの初めてのお誘いで私が参上したのでした。タクシーの運転手が気が利かなくて、あなたのお宅のまわりで三十分も迷いました。とても寒い日でした。あなたがオーバーも着ず、玄関の外に出てずっと待っていて下さったのに驚きました。何てやさしい方なのだろうと思いました。三時間余り居た間、あなたは一言も喋らず私一人が喋り通して疲れきりました。脳梗塞で倒れられて、ずっと療養中のあなたは、文は書かれるけれど、会話はまだ御不自由なのでしょうね。その日、困った編集者が、最後に、
「瀬戸内さんをどう思われますか?」
と訊いてくれた時、ゆっくりと、しかしはっきりと「や、さ、し、い」と答えて下さいましたね。どんなたくさんの対談よりも、その一言を何よりの慰めとして帰ったのでした」(追悼文より一部抜粋)
いつのまにか、3時間、庭の桜の樹幹の枝が広がって、生涯小説家の二人のその言葉にならない対談の様子を荒木は写していく。瀬戸内寂聴を前に微動だにしない野坂昭如、さてこの無音の対話、どう形にするか。
スイッチ編集長 新井敏記