FROM EDITORS「空よりも」

アートディレクターの葛西薫さんに久しぶりでお目にかかった。ギタリストの村治佳織さんの新しいCDのジャケットデザインを葛西さんがつとめ、写真を操上和美さんが撮るというので、撮影当日スタジオに出かけた。村治さんの新しいCDのタイトルは『シネマ』、映画音楽へのオマージュのような作品となっている。

撮影中流れている音楽は懐かしいものだった。

休憩中、葛西さんに映画の中で思い出のある曲を訊ねた。葛西さんは先日カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した是枝裕和監督の二年前の作品、『海よりもまだ深く』の挿入曲でテレサ・テンの「別れの予感」をあげた。すぐにiphoneに入っている「別れの予感」を流して葛西さんに聴かせた。

ゆっくりと耳を傾けながら葛西さんは呟いた。

「この歌の歌詞の一節『海よりもまだ深く 空よりもまだ青く』が映画のタイトルになったんですね。こんなはずじゃなかったって今を生きる男とその母の物語」

是枝作品の中、自身がデザインを手がけた作品ではないものをあげる、葛西さんの優しさを感じた。

「ハナレグミもいいですがテレサ・テンがいいです」

そう言うと葛西さんは相貌を少し崩しながらこう続けた。

「テレサ・テンのこの歌が好きなんです」

なぜテレサ・テンが好きなんだろう、そしてどんなところが好きなんだろうかと聞きたかったが、野暮だと思って控えた。村治さんのアコースティックギターの音楽が流れるスタジオに「別れの予感」が二度流れた。それだけで充分だと思った。

葛西薫さんが“ほぼ日”で糸井重里さんと対談した時の言葉を思い浮かべた。

−−文字の気持ちになってみる、ということじゃないですかね。ぼくが「K」という字だったら隣に「A」がきたら近づきたくないとか。よく、ぼく、言うんですよ。紙の気持ちにもなってごらん。ここに、イヤな字が乗ったら紙が嫌がるだろうと−−

人間の都合だけで考えるのが言葉、憧れの人に近づきたくて文字を真似たことを思い出した。ほんの数歩近づいたらいい。スタジオのテーブルには葛西薫さんが撮影用にと描いたジャケットのラフスケッチが二枚無造作に置かれていた。覗き込むとジャンヌ・モローを真似た妖艶な女性が嵐が丘のような岩場で遠くを見つめているような絵が鉛筆で描かれ、映画の絵コンテのようにその主人公は遠くを見つめていた。こんな人を葛西さんが愛していると思った。

スイッチ編集長 新井敏記