ある女性の話を聞いた。
待ち合わせである駅前のベンチに座っていると、隣の初老の男がコンビニの袋からおにぎりを取り出して食べようとするも、セロハンでくるまでたおにぎりを上手に取り出せないでいた。見るとひっぱる箇所を間違えて苦戦している様子。彼女はこう言葉をかけた。
「おにぎりの三角形を正面にして」次に彼女がおにぎりのてっぺんを指差してこう言い続けた。
「ここに1という番号があってひっぱる部分があるでしょう。ここをまっすぐ下につまんでひっぱって、そして2と書いてある角をつまんで次に3にと、片方ずつひっぱる」
男は彼女に言われた通りやろうとした。その時彼女は「あっ」と声をあげそうになってあわてて言葉をのみこんだ。その男は片方の手がなく、おにぎりを持ちながらその動作をすることは難しいのだ。「貸してください」そう言うと、彼女は男の代わりにコンビニおにぎりを完成させた。
「ありがとう」
男が礼を言うと、おにぎりを食べはじめた。まずはてっぺんからそして開けた時と同じ順番でそして最後は具の中心部分を食べていく。
待ち人が来てその場を立ち去っても、男がおにぎりを食べる姿は彼女の頭から離れなかった。
樹木希林さんは、生きていることには困難がたくさんある。それを受け入れるために「ありがとう」という言葉はあるのだと言っていた。
「ありがとう」という言葉は形容詞「有り難し」が連用されたものだという。有ることが難しい、めったにないことを言うとされる。果たして人間にとって生まれたことがそれほど難しいのか、言葉について何人かの作家にインタビューをしてみた。
戌井昭人さんに、大切な人へのありがとうの伝え方を訊いた。
「今日ここに来る時にバスを降りる時に運転手さんに言った」
「ありがとう」という魔法の言葉にはどんな記憶があるのか、探してみたいと思った。待ち合わせにふとおにぎりを巻いてあげた彼女は、パリのシェイクスピア&カンパニー書店の階段入口の壁に手書きで掲げられた言葉、まるでビートの教えを旅するようだ。
「見知らぬ人と出会っても冷たくするな、その隣人は変装した天使かもしれない」
“BE NOT INHOSPITABLE TO STRANGERS LEST THEY BE ANGELS IN DISGUISE.”
スイッチ編集長 新井敏記