ニューオリンズからお客がやってきた。一人は写真家、もう一人は映像作家だ。小誌7月20日発売号の特集取材の現地コーディネートとして、二人にはたいへんお世話になった。映像作家は6月からニューオリンズからサンフランシスコに引っ越すという、その前に日本に行ってみたいということで、1週間の短い観光旅行でやってきたのだ。写真家の方はもともと日本に関心があって、合気道をやっていたぐらいの日本通、京都から信濃追分と自分が行きたい所を二人はピンポイントで挙げて、精力的に動き回っていた。
ニューオリンズのお礼に食事をごちそうする機会をもった。二人は寿司と鰻が食べたいという。まず寿司屋を予約して、鰻は翌日の昼にした。寿司職人のネタ選びや、下ごしらえの丁寧さに二人は感動していった。さもあらん、ニューオリンズの寿司屋はタイ料理のパッタイもあるくらい、大雑把なメニューだった。
食事を終えると映像作家はそのお礼にと、自分が一番好きなアメリカの詩人の詩を一篇、空で読み上げた。
魂は人生、
わたしの死の背後にある。
儚いも、それはしなやかにいつかは海に流れ込む。
ソネットだった。
「グレゴリー・コルソー」
映像作家は詩人の名前を言った。30年前、大晦日の夜のニューヨーク、セントマークス協会のビートの朗読会で彼を見かけたことがある。アレン・ギンズバーグとともにビートシーンを駆け抜けた偉大な詩人だ。彼は酔いつぶれて、自分の出番が来ても、椅子から立ち上がれず朗読もままならぬ状態だった。
「一度だけ見かけたグレゴリー・コルソーは酔いどれ詩人だった」
僕が言うと映像作家はこう答えた。
「母が好きで、この詩を繰り返し、わたしに聞かせていたんです」
そう言うと映像作家は満面の顔を浮かべた。そう、ウニを食べた時のような表情で、笑顔がこぼれていた。
スイッチ編集長 新井敏記