友人が今、書に夢中になっている。ひとりの書道家との出会いが彼を書の道に一歩踏み出させたようだ。
「面白い弟子がいます。まだ若輩ものですが、彼の書は元気なのです」
八十代半ばのその書道家が言う。思わず若輩の弟子の年齢を友人が訪ねた。
「七十二歳」
友人が自分の年齢を伝えると、「子どもですね」と書道家に笑われたという。なんだか嬉しい言葉だった。友人は無我夢中でメモ用紙とボールペンを書道家に差し出して、大好きな字を一字描いてくださいとお願いした。
彼は「一」と書いた。
さーっと履いたような書き方ではなく、ザッザッと掻くような音がした。「流れてもいけない、止めてもいけない」書道家はポツリと言う。「美しい」と褒めると、書道家は「憧れる書家が空海なんです」と続けた。空海の字は堅牢で見事なバランスをなしているという。老境にあっても旺盛な研究心に頭が下がると友人が言う。
俳優の緒形拳さんに「新」と一文字を書いていただいたことがある。彼は墨を擦って彫るような字を書いた。
笠智衆さんには鎌倉で書を書いていただいた。
「山川草木」
筆ペンでさらさらと彼は清冽な四文字を書いていった。篆刻は三文判だった。「なぜこの文字を選んだのですか?」と僕は訪ねた。
「簡単でしょう」
彼はそう言った。「もう一枚書いてください」、僕は名優に乞うた。「はい、いいですよ」
布擦れのような音を、僕は耳を澄ませて聞いた。何年も経ち、「山川草木」が釈迦の教えであることを知った。
「我と大地と友情と同時に現成す、山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」と悟りの境地を釈迦は言う。道元はこの言葉をこう説いている。「大地も山川も草木も、石ころも木片もみな真実輝く仏なり、生きとし生けるものはすべて命輝く仏、この世のすべてがみな仏」だと。名優はこのことを知ってか知らずか、享年八十八の豊かな人生を終える。一文字なら彼はなんと書くか。
スイッチ編集長 新井敏記