深夜、小津安二郎の映画について調べものをしていたら、急に天草で出会ったマッサージ師の女性のことを思い出した。彼女の名前が女優田中絹代と一文字違いだったのだ。
田中さんはマッサージ師を明日で引退すると施術前に言った。引退するのがもったえないくらい田中さんの力具合は私にはよかった。
「山は好きですか?」いきなり田中さんが私に質問をしてきた。「アウトドアはするのですか?」彼女は続けた。小さく頷くと彼女はさらにこう言った。
「山について知りたいのです」
「例えば?」
「遭難の場合は救助にかかる費用はどうなっているのか」
いきなりの問いかけに、私は田中さんに知り合いに遭難された方がいるのかと訪ねた。そして私は思わず顔をあげた。彼女が首を横に振った。
「息子が山に登る」
彼女は言った。「子ども三人、今は二人は熊本市内、私は天草で長男と一緒に住んでいる」
下の子どもはいくつぐらいだろうか、ふと疑問を口にしようとしたが余計な詮索と思い、やめた。
「十年前に離婚をしている」
田中さんが訊いてもいないのに言葉を続けた。
「なぜマッサージ師になったのですか?」
私が訊いた。
「夫がマッサージ師だったんです」
「だんなさんから教わったんですね」
「いや、何も教わらんかった」
田中さんがその時方言で声を少し荒げた。田中さんの素。でもすぐに取り繕うように大きな声で笑った。その笑い声はまるで天草のわらべ唄のような旋律を残した。だんなさんと別れてマッサージ師になって十年と田中さんは別に惜しむわけでもないのに区切りを繰り返した。
「いろいろなことがありましたね」田中さんは呟いた。
「いろいろ? ですね」私はその言葉を流した。
「優雅に暮らすお金持ちの家に出向く。時に老夫妻の家に」
そうか、お金持ちか。人好きな顔をした田中さんは人気もあったのだろうと推測した。
「その老夫妻、だんなさまはおしめをしているが、換えてもらっていなくて汚れていた。まずお湯と捨ててもいいタオル、新しいおしめを奥様にリクエストしました。きれいにすると、気持ちいいとだんなさまは笑いかけてくれる。
それから毎日のように依頼があり、私はその家に足しげく通うことになりました。
だんなさまは少しずつ元気になり、歩けるようになりました。でも……」
「でも……なんですか?」
田中さんは少し沈黙して、言葉を選ぶように続けた。
「ある日、奥様からもう来ないでと言われました。その時はなんだかわからなかったんです」
「理由を訊くことはしなかったのですか?」
田中さんは小さく微笑んで「そんな、しません」と言下に否定した。
「わからなかった。でも後であっと思ったんです。奥様、おしめを換える時にだんなさまの大切な場所を私に触られるのがいやだったのかもしれない」
やきもちという言葉が口に出かかったが、慌てて飲み込んだ。あまりにも重すぎて言葉で片付けられるものではないと思った。その時の田中さんの笑みは彼女を一回り若くした。
スイッチ編集長 新井敏記