1981年8月、僕は「ISSUE」という雑誌を発行した。B5変形で創刊号の表紙はジャコメッティの「歩く人」をモチーフにした大竹伸朗のペン画だった。アートディレクターは戸田ツトム。1964年の東京オリンピックの時はプレスセンタービルだったという、青山通りに面した外苑ビルという古いビルの1室を戸田の紹介で借り受け、この雑誌をスタートさせた。隣室では戸田が「MEDIA INFORMATION」という雑誌を作り、ポストカードを売るギャラリーを主宰していた。でもこのギャラリーはほどなくして撤退し、結果僕が2室を借り受けることになった。この時は騙されたと思った。ここで僕は「POPEYE」の記事やいくつかの出版社の編集を請け負っていた。音楽関係者や映画関係者と数多く知り合い、「SWITCH」という音楽レーベルを立ち上げ、ふたたび雑誌を発行していった。
SWITCHの黎明期は8ページの新聞からのスタートだった。定価100円、本屋では全く売れなかった。1983年ニュージャージーでブルース・スプリングスティーンのライブを見た。心が震え、彼のことをもっと知りたいとアメリカ各地にブルースを追った。「おまえは何者か」、アポイントもなしにインタビューをしたいと言うと、いつも問われた言葉だった。会うためにはメディアが必要だと言われた。友人を介してデザイナーの坂川英治に出会った。音楽、映画、そして文学、アメリカ文化の洗礼を受けて育った坂川と雑誌を作っていく。もちろん金はなかった。志を持ってワクワクすること、僕の、そして坂川の生きる糧であった。
1985年SWITCHの新・創刊の特集を飾ったのはサム・シェパードだった。俳優、ミュージシャン、作家とジャンルを超えて活躍する男の肖像を追った。友人の伝手で彼の連絡先を追った。映画『パリ、テキサス』の監督ヴィム・ヴェンダースのインタビューを通して彼の人間像を想像した。「彼に会いたい」とヴェンダースに言うと、「彼ならサンタフェに住んでいる」とヒントをくれた。翌日国際電話のオペレーターに「サンタフェに住むサム・シェパードさんをお願いします」と申し込んだ。「サンタフェに住むサム・シェパードさんは4人います」とオペレーターは答えた。僕は一人ひとり通話を申し込んでいった。
オールモノクロで80ページ。本屋に自分で持ち込んだ。表参道にある山陽堂書店の主人に「シェパード、犬の本かと思った。こんな雑誌を置く場所なんてない」と無下に断られた。めげずに平台を掃除して少しずつ雑誌を動かしてスペースを作った。すると主人に「仕方ないな、絶対つぶすなよ。つぶすと会計処理が大変なんだ」ときつく念を押された。僕は二つ返事で「はい」と答えた。まずは10冊置いてくれた。外苑ビルに遊びに来た仲間にSWITCHを見せた。これは売れないと一蹴された。ほどなく山陽堂から追加で10冊注文が入った。持参すると主人からSWITCHを読んだ辛口の感想を長く聞くはめになった。面白い記事とつまらない記事、その時も僕は「はい」と答えていった。毎日が反省会、坂川とは4年間、合計24冊しか一緒に仕事をすることはなかった。撮り下ろしが増えて自分のやることがなくなったと彼はSWITCHへの興味を失っていく。冷蔵庫の余り物で料理を作ることが快感で、市場でいい食材と仕入れて料理をすることには関心はないと、絶縁の手紙が届いた。長い長い手紙だった。僕も負けずに長い長い返事を書いた。するとまた長い長い長い手紙が彼から届いた。そこでおしまい。僕たちは絶縁となった。
戸田ツトムは秀英明朝(SHM)を、坂川英治は新聞特太明朝(YSEM)を駆使して編集デザインの海を渡っていった。戸田ツトム7月21日、坂川英治8月2日。「ライク・ア・ローリング・ストーン」、しかし転がる石ではなく、転がれ石と、石を蹴飛ばしながら私たちは自分の主張を路上に走らせた。無頼を生きた仲間が死んだ。
スイッチ編集長 新井敏記