FROM EDITORS「ひとつとしてない」

古今亭志ん朝と立川談志の古典落語『芝浜』を聞き比べた。

魚屋の勝は、腕はいいが無類の酒好きで仕事もさぼりがち。よって夫婦は裏長屋に住む貧乏暮らし。女房は、今日こそは天秤棒一本かついで真面目に商いをしてくれと、朝早く叩き起こす。嫌々ながら勝は芝の魚市場に仕入れに向かう。しかし時間が早過ぎたため市場はまだ開いていない。誰もいない夜明けの浜で顔を洗い、煙管を吹かしているうちに、足元の海に沈んだ革の財布を見つける。拾って中を開けると五十両が入っている。有頂天で自宅に飛んで帰り、仲間を集めて大酒をしこたま呑む。働くのが馬鹿馬鹿しくなった翌日、二日酔いで起き出した勝に、女房はこの支払いはどうするのかと詰め寄る。勝は財布のことを告げるも、女房は酔って夢を見たんだろと突き放す。勝は拾った財布を探すがどこにも見つからず、借金も膨らみ、観念した勝は一念発起して死にもの狂いに働きはじめる。それから三年後——

『芝浜』は、夫婦愛を描いた人情噺だ。1950年代、三代目桂三木助がこの物語を完成させたと言われている。三木助は落語とは絵だと言う。なるほど、談志の世界は、夜が明けて朝日に照らされる真白い浜、穏やかな波、静かな美しい芝浜を丁寧に描く。師匠の柳家小さんから受け継がれた映画のような風景描写は繊細で美しい。財布を拾った勝の有頂天ぶりも実に見事だ。談志の『芝浜』は主人公が魚屋の勝なのだ。

一方志ん朝の『芝浜』は、浜の描写をあえて削り、女房の視線に重きを置いた展開で、慌てて戻ってきた勝が女房に語り聞かせる。志ん朝の父志ん生は、三木助の「芝浜」をこう言ったことがある。

「芝浜のくだりが長すぎては、とても夢と思えない」

前半の聞かせどころをあえて省くことによって、女房の心情を屹立させていく。聞き手を女房の共犯者とさせていくのだ。談志が後半に、騙して申し訳ないと女房が勝に心から謝罪して涙を流す場面を登場させたのは、前半の芝浜で財布を拾う場面の対として桔抗させるためかもしれない。志ん朝は、市場に出るまでの腕はいいのに酒に溺れて馴染み客から見放され、暮れになって借金で首も回らなくなりようやく働きに出る朝を克明に描き、それでも盤台が乾いて使い物にならない、包丁が研がれていないと愚図る勝を、女房はこう説得する。

「ちゃんと準備ができてるんだから、行っておくれ」

志ん朝の『芝浜』は、あくまでも夢だと言いくるめる女房の思いが切なく愛おしい。同じ『芝浜』はひとつとしてないのだ。

スイッチ編集長 新井敏記