瀬戸内寂聴さんに初めてお目にかかったのは2007年9月のこと、藤原新也さんの紹介で改装前のパレスホテル1階のカフェだった。この時寂聴さんは85歳だった。
僕は2001年に発表した『場所』という作品が好きだった。得度前の瀬戸内晴美という作家の生成の軌跡をノンフィクションという縦軸に置き、主人公がそのつど生活した所縁の場所を通していくつもの記憶をつなぐ物語だ。愛別離苦、愛する者と別れた過去の苦をもう一度やり直して生きていく覚悟のような逞しさを僕は見ていた。何よりも印象的なのは、熱情と波瀾の人生に比べて、書くスタイルのなんと自由なことか、嘆き悲しみが未来を切り拓く逢瀬となっているのだ。
向かい合わせに座った席で、開口ー番に僕は『場所』に感銘を受けたことを話した。すると寂聴さんは初対面の僕にこう言った。
「私はものを書く仕事でまかなってきてからもう50年になります。無我夢中でした。書きに書いた。新潮社の同人雑誌賞を得た『女子大生、曲愛玲』の原稿を西荻窪の赤いポストに投げ込んでからです。その時は瀬戸内晴美という戸籍名。その前はかつての本名だった三谷晴美をペンネームにして少女小説を書いていた。51歳で出家、それも死ぬまで書き続けるための思想のバックボーンを鍛えるため。『花芯』という小説で子宮作家というレッテルを貼られ5年間文芸雑誌から干された。芥川賞も素通りして有名な賞には無縁。これまで400冊ほど書いてきた。昔同じアパートに住んでいた円地文子さんに言われました。『いいですか、小説家の書いたものなど、死んだら3年と持ちません。どんな流行作家も見捨てられる。生きているうちが勝負です。書きに書いて、書き死する覚悟でいなさい』と」
声も出ないようなその言葉の思いを噛み締めながら僕は寂聴さんの言葉に耳を澄ませていた。そしてその先、僕は夢中になって寂聴さんの言葉に耳を傾けていった。僕の神妙な顔を見て寂聴さんはこう言った。
「どう、ただならぬ人生でしょう」
寂聴さんは笑みを浮かべた。
「さっき、このようなことを綴ったエッセイを書いたの」
そう言うとニヤッと歯を見せてさらに大きく笑った。
隣に座っていた藤原さんはもういいだろうと、寂聴さんの話を遮った。その日藤原さんは寂聴さんを初カラオケの宴に誘っていて、その人数合わせとして自分は呼ばれたのだと、後で知った。寂聴さん常宿のパレスホテルの地下にカラオケルームがあり、藤原さんが事前に予約をした時間が迫っていたのだ。藤原さんの早くと促す言葉を聞きながら、作家瀬戸内寂聴の業をもっと見たいと思った。
スイッチ編集長 新井敏記