FROM EDITORS「シトカに住む」

2011年4月、僕は 『夏の水先案内人』という本を上梓した。南東アラスカはパラノフ島の沖合の小さな島、その入江にある一軒のフロートハウスの主人ジョン・チマーのことを写真と文章で表した一冊だった。

ジョンは大工仕事の傍ら、豊かな漁場が広がる海で釣り客を乗せ、自分で釣った魚を市場に売って生活していた。1メートル90センチ近くの大きな身体、赤い鼻、顎髭、そしてトレードマークでもある船員帽をいつも被った愛嬌のある笑顔が印象的だ。星野道夫のクジラのバブルネットフィーディングの写真は、スティーヴンス・パッセージを過ぎた場所でニシンの群れを狙った10頭のグレーホエールを捉えた1枚だった。

ジョンが船を出す時の相棒がピート・ケイラス。ずんぐりとした体躯に白い顎髭の男だ。ピートは妻バーサとともにシトカに住み、自分たちの名前を冠した“ケイラスB&B”という宿を営んでいた。ピート自慢のサワドーパンケーキは宿の朝食の定番メニューだ。大小さまざまな島、美しい入江、海辺まで迫る針葉樹の深い森、氷河を抱いた山々、ここにはゆっくりとした自然のリズムが流れていた。シトカはいつか暮らしてみたい憧れの町だと星野道夫は言った。星野がシトカを第二の故郷と呼ぶのは、ケイラスB&Bがあることも理由のひとつだ。ここの3階の“Forget me not”というブルーを基調とした部屋からは、富士山の稜線に似たエッジカム山が見える。

「私たちの失ったもののひとつはクリンギットの名前の本来の意味かもしれない。ワタリガラス、イーグル、シャチ、クマ、それぞれの家系固有の名があり、私たちの文化にとってとても大切なもの」

ある時、バーサは3階のリビングのロッキングチェアに腰かけて僕にそう話した。そして僕は、自分の名前の謂れを訊ねられた。僕は「毎日文を記す人」と答えた。

「今日からあなたはシャチの家族だ」

そう言ってバーサはしばらく考えると、「UT Kush Xe’t Saa’ Tee’」と名前を付けてくれた。“Master of Writer”という意味だと教えられた。

この4月19日、バーサ・ケイラスが死んだ。思えばジョンは2014年2月21日、ピートは2018年3月12日に鬼籍に入った。彼女が付けてくれた僕の名前は発音が難しく、僕はまだ綺麗に一回で言えたことがない。作家になるまで練習は続くだろう。じっくりと1日時間をかけて、彼らのこと、そして彼女を想い、シトカに住む理由を考える。

スイッチ編集長 新井敏記