FROM EDITORS「小さな巨人と大きな巨人」

この数年、黒田征太郎と旅をすることが多い。池澤夏樹との絵本で広島と沖縄を歩いた。かつて黒田が盟友とした亡き中上健次との足跡をたどり、ソウルに飛んだ。1980年代のはじめ中上はソウルで暮らし、見て聞いて出会い感じたことをいくつもの物語に紡いでいった。日本と韓国の限りなく似て非なるものを、中上はひとつひとつ拾遺していった。例えば篠山紀信との『輪舞する、ソウル。」(1985年)、その中で中上はこう書いている。

「韓国に来て、私が深く感じ入ったのは、言葉をととのえていれば、アジュマやアジョンらの生活空間である風景の深度だった。それは光によってもたらされる。韓国に降りそそぐ光と日本に降りそそぐ光に本質として違いは何もないと分かっているのに、光はあきらかに違う。昼と夜、朝と夕、ことごとくが、日本のものよりもアクセントが打たれているように鮮明で深い」

黒田はソウルで、チャンゴ演奏家でありサムルノリを主宰するキム・ドクスと再会を果たした。ドクスは1990年代に、大阪で黒田と中上が企画したナンジャンという青空ライブ空間でサムルノリを演奏した仲間であった。ナンジャンと場所を命名したのはドクスで、韓国語で市場のにぎわいを意味するのだという。いわばなんでもありと、黒田はナンジャンに「乱場」という字をあてた。

ドクスは、ナンジャンをソウルでも行いたいと思い、若いジャズミューシャンとのセッションを企画し黒田を誘った。絵もその場で売って会場費やミュージシャンのギャラにあてようと、黒田はドクスに提案した。会場はカンナム、日曜日ということで親子連れも数多く集まった。ライブ後、その時描いた10号ほどのサイズの6枚の絵はその場でオークションが開かれ、来場者が競り落としていった。最初に鳥の絵が競りにかけられた。「100万ウォン」という声が飛んだ。子どもの声だった。会場がどよめき、その一声で決まった。子どもは小学生で、親と一緒だったが、彼は親に相談せずに声をあげた。親はびっくりしていたが、怒る様子もなく子どもに従った。絵に対して等価と思える金額を払う、彼にとってはそれが100万ウォンだった。結果6枚のうち4枚の絵が100万ウォン以上の値段で売れた。そのうち2枚を子どもが買った。

絵を受け取る時に、子どもが黒田に質問をした。

「なぜ鳥の絵を描いたのですか?」

黒田は嬉しそうに答えた。

「鳥は国境なんて関係ないでしょう。音も絵も同じ」

そう言うと、黒田は彼に握手を求めた。韓国の子どものすごさを実感した瞬間だった。僕の顔を見ると黒田は小さな声でこう言った。

「右上から左下になだらかに線を引くと鳥になる、簡単でしょう」

この老境にある人もまたすごい人、まちがいなく巨人だった。

スイッチ編集長 新井敏記