福岡の知人が上京していると連絡があり、夜に食事をすることにした。当日の予約にもかかわらず、運良く「三合庵」が取れた。知人は、写真展の準備でここ数日まともな食事を取っていないというので、夜のおまかせコースを注文した。「三合庵」の蕎麦、正直、ぼくはこの店の蕎麦よりも美味しい蕎麦を食べたことがない。自分は飲まない分、知人に日本酒を勧めた。おひたしや茶碗蒸し、そしててんぷら、出汁巻き玉子と、次々に料理が運ばれてくる。知人は美味しい食事に気持ちがほぐれたのか、一合単位でお代わりをしていった。酔いながら知人は、ぐいのみの飲み口の良さを惚れ惚れと称え、酒を口に運び器を指で撫で眺めている。
「三合庵」が開店したのは2000年のこと、その頃は北里病院近くの白金5丁目にあり、席数20あまりの小さな店だった。オープン当時から蕎麦はもちろん酒器も見事なものだった。四半世紀経ち、今は広尾駅近くの広尾プラザ1階に個室を備えた大きな店となった。その歳月は酒器に重なる。ぐいのみの口に細やかな金継ぎがある。金継ぎとは壊れた食器を漆を使って修理する方法のこと。漆自体が接着に使われていたのは縄文時代からと言われるが、金粉で装飾仕上げをしたのは茶道が流行った室町時代以降だという。
「これはどこの器かな?」
知人は同じ九州の佐賀や長崎、鹿児島の作陶であってほしいと願ったのかもしれない。
「唐津だと聞いた」
僕は以前三合庵の主人に教えてもらったことをそのまま伝えた。唐津ということで、知人は相好を崩した。
「唐津の中里さんと聞いた」
「唐津は中里さんばかりだ。名前を知りたい」
困った。名前は失念していた。勢い知人をなだめ、閉店間際まで待つことを僕は提案した。誰もいなくなったタイミングで僕が主人に器の作陶を訊ねる。その時間まで知人は酒杯を重ねればいい。そう言った瞬間、主人が僕のテーブルに来て「今日はせいろがいいか、それともあたたかな蕎麦がいいですか?」と訊いてくれた。僕は勢い両方と答えた。そして僕はこの器の作陶をこう訊ねた。
「この美しい器は、誰の作品ですか?」
主人は一呼吸置くとこう言った。
「隆太窯の中里隆先生です」
僕は知人に頷くように笑みを浮かべた。
「ありがたいことに先生は開店当時、俺の器を使えと段ボールいっぱい持って来られたんです」
「すごいですね」
「ちょうど今日の個室は中里先生でした。うるさかったでしょう。ごめんなさい。でもちょうど今先生がお帰りになるところです。ご紹介します」
僕は思わず立ち上がり「ありがとうございます」と言った。
「先生」主人が呼ぶと、二段上がった個室の扉が開いて、先生はゆっくりと階段を下りながら現れた。それはまるで老境にあるシェイクスピア役者のような粋な姿だった。しかも酩酊状態で体が揺れていた。
「うるさかったですか、ごめんなさい。ここに久しぶりに来れたので、つい嬉しくて飲んじゃいました」
先生はこう続けた。
「あなたたちのことはたぶん覚えていません。ぜひ唐津に来てください。その時、三合庵で酩酊した時に会ったと伝えてください。窯を案内します。そして洋々閣に泊まりなさい。宴会しましょう」
そして「さようなら」と一言告げると静かに踵を返し、去っていった。それはまるで懐かしい風のようであった。酒飲みの言うことは信用できないが、彼の呟いた宴は信じたいと思った。
スイッチ編集長 新井敏記