FROM EDITORS「横綱の頬にキス」

2024年7月28日、名古屋場所の千秋楽、横綱・照ノ富士と平幕・隆の勝の優勝決定戦が行われた。照ノ富士は立ち合いでは隆の勝にもろ差しを許すも、土俵際で巻き返し、最後は寄り切って10回目の幕内優勝を飾った。

勝ち名乗りを受けた照ノ富士は、汗が吹き出しピンクに高揚した顔で胸を張り、意気揚々と花道を引き上げる。思えば照ノ富士は初場所で9度目の優勝を果たすも、その後は古傷の両膝や腰痛で2場所連続途中休場。5月夏場所は初日黒星で2日目から休場を余儀なくされていた。伊勢ヶ濱部屋の付き人が、涙を流し万感の思いで照ノ富士を迎える。

東の支度部屋に戻る時、待ちかまえた白いシャツの大柄の男がスッとかけよった。照ノ富士が頬を出すと、男がキスをした。優勝を我がことのように喜び、軽く抱擁する、照ノ富士の肩を軽く叩きながら、よしとばかりに離れる男の姿が印象的だった。その時間わずか数秒のこと。背中越しに男の高揚感は伝わる。男は弟子北青鵬の暴力事件により、部屋の無期限閉鎖処分を受けた元・横綱白鵬こと宮城野親方であった。花道奥で出迎えた平年寄に降格した宮城野親方の照ノ富士への親愛の情に驚き、二人の友情が僕には嬉しく思えた。

2021年の7月場所のことだった。現役最後、横綱白鵬の密着180日間の取材を、僕は思い起こした。同じ名古屋場所で、白鵬と照ノ富士は互いに全勝で千秋楽を迎えた。白鵬と照ノ富士の通算対戦成績は9勝4敗、休場明けの白鵬は進退をかけ、照ノ富士は3場所連続優勝と、横綱昇進に花を添えるか、まさに大一番であった。仕切りでは凄まじい迫力がぶつかり、鬼の睨み合いがあった。勝負は、白鵬の伝家の宝刀でもある三度の上手投げからの小手投げで勝った。「投げ捨てた」と後にこの勝負を白鵬は僕に語った。「取組前、土俵下で照ノ富士は緊張のあまり指でぬぐった汗を土に払っていて、それが許せなかった」と、白鵬は言う。白鵬自身、呼び出しを受けて土俵に上がる際に土俵にキスをしてこの一戦の決意を捧げていた。結果この勝負は白鵬が899勝目として、花道を飾った。白鵬の高揚した身体からモンゴルの野と空の美しい大地に吹く風を感じた。その背中は逞しい山のようで、腕や肩や太ももは岩のようだった。帰化したとはいえ、彼のルーツは幼い頃のゲルでの生活にあった。朝起きると近くの井戸まで水を汲みに行き、牛や羊の糞を集め乾燥させ燃料にする。馬に乗る時は内股で馬の胴体を挟みつける。大草原の暮らしは彼の肉体を強靭なものにした。

モンゴル人は、親愛をキスで表すという。かつてノマドと呼ばれた遊牧の民が、ゲルに招き寄せた客人へのもてなしを精一杯身体で表現したものだと言われている。謹慎の身、本来なら遠く見守るべきものを敢えて間近で勝負への執念を讃える。照ノ富士にとってまさに乾坤一擲の大一番であった。かつて45回の優勝を誇る大横綱白鵬の、横綱照ノ富士への頬を寄せてのキスは、モンゴル人の勝負に宿る神への捧げ物だと映った。

そして今年の名古屋場所は、宮城野部屋から伊勢ヶ濱部屋に移った炎鵬が脊髄損傷から420日ぶりに復帰、西序ノ口十三枚目で6勝1敗の成績を残していた。かつての幕内力士の炎鵬に、勝負の神がもうひとつ宿ることを切に願っている。頑張れ炎鵬。

スイッチ編集長 新井敏記