旭川空港から車で約10分、北海道の真ん中に位置する東川は世界屈指の雪質を誇る大雪山の旭岳の麓にある人口8000人程の町。旭岳が育む良質な地下水が人の営みを支え、世界に類を見ない「写真の町」としてユニークな試みを全国に発信してきたことで町には常に新しい風が吹き込み、年々移住希望者も後を絶たない。東川は自然がいちばん上にある町。だからこそ町の先輩も新人も分け隔てなく、互いが響き合いながら自分の物語を生きている。町と人との理想的な関係のヒントを探しに、東川の町を歩いた。
協力=写真文化首都「写真の町」東川町、オフィスシーサイド
受け継がれる町の意思
東川の変遷を見守ってきた飲食店がある。町の中心部に建つ「居酒屋りしり」は、現在店を切り盛りする中竹英仁さんの父親の代から続く、新鮮な魚が売りの町のシンボル的な飲食店だ。この日、洋服店「Less Higashikawa」を営む浜辺令さんと待ち合わせたのもりしりだった。
浜辺さんは東川と旭川で、衣・食・住をテーマに3つのお店を営む。東川がなぜこれほど人を惹きつけるのか単刀直入に訊くと、「やっぱり人の力じゃないでしょうか」と即答する。
「土地が持つ力を活かせるのも結局人なので。15年くらい前から徐々に東川が注目されるようになって、足りなかったピースが埋まっていくように様々な人が集まってきていますが、東川が変わり始めたのは40年くらい前からなんです」
浜辺さんの父はかつて東川の議長を務め、その奮闘を間近に見てきた。
「親父世代が町のために何をやってきたかを理解できたのは一緒にお酒を飲めるようになってからですが、よく『東川らしさってどんなところだと思う?』とか、平成の大合併の時には『町の名前がなくなったらどうする?』とか問われてきたので、自然と町のことを考えるための種を与えてもらった気がします。例えば今こうして僕らが地下水で暮らせているのも、国が闇雲に全国に上水道を引こうとしたのを突っぱねて、この土地の本質や次の世代に残すべきものは何かを真剣に考え、国に迎合せずに戦ってきたからなんです」
オーダーが落ち着き、厨房の手が休まると中竹さんも会話に加わる。中竹さんと浜辺さんは幼馴染み、2人とも実家が魚屋と薬局という商店街の子供として一緒に育ってきた。
「上水道があるのが町のステータスで、地下水で暮らすなんて田舎者だという意識が強いなかで、浜辺のおじさんたちの世代が『この水は町の宝です』と守ってくれたんです。りしりのこの建物も、97年に北の住まい設計社さんに建ててもらったんですが、当時はこのような洋風の建物は珍しかったんです。うちは父が早くに亡くなり、新しく始めたばかりの居酒屋を母が継ぐことになって、『東川の人たちの誇りになるお店を作らなきゃいけないよ』と母を焚きつけ、この建物を建てたところからうちの物語は始まっているんです」
2人とも高校卒業後に一度札幌に出て、町の外を見て再び東川に戻ってきた。中竹さんは2004年、29歳の時からりしりの厨房に立ち、浜辺さんは2004年に旭川でLess を立ち上げた後、2012年に東川に2店舗目をオープンさせた。自分たちの親の世代の奮闘を見てきた2人は、今度は自分たちが町を担っていく番だと気概をのぞかせる。
「今後この町が便利になっていく反面、失われていくものも増えてくると思います。長年かけて創ってきたものを無くすのは一瞬で、誰も気にかけていなければ確実にそうなってしまうという危惧はこの10年くらいずっとあります。かと言って町も新しい考えを取り入れてアップデートしていかなければ衰退していきます。だからこそ、外から来た人の話が聞けるこういう場が大事なんです」
そう話す浜辺さんは、飲食店こそ町の真ん中にある大事な社交場であると説く。中竹さんもりしりが人と人を繋ぐハブのような場所であれたら東川のために一役買えてるのかなと微笑み、こう続けた。
「東川の魅力って、これまで外の人に気づかせてもらってきたものだし、もともと住んでいた人のほうが便利さに流されやすいからこそ、警戒しなければなりません。今後町が劇的に変わってしまえば、移住してきてくれた人たちに失礼なんじゃないかな」
東川の未来を語りながら夜は更けていく。りしりのカウンターには愛おしい時間が流れていた。
東川の土壌に育つもの
東川町は人口の半数以上が移住者であり、移住者によって新陳代謝を繰り返してきた。「Vraie(ヴレ)」を営む村上智章さんも6年前に移住してきた。神戸、大阪で20年以上フレンチのシェフを務めた後、2008年に奥様の故郷の札幌でビストロを開業。もっと自然に近い環境でお店をやろうと、道東で移住先を探していた時に浜辺令さんと知り合ったことで東川と接点が生まれた。
「まだ物件も決まっていないのに友達が増えていった感じですね。東川に通い始めて、移住するまでに4年もかかっていますから。令くんと出会った時、この町は既に注目される町になっていたから、令くんも人から移住相談をよく受けていたようです。でも結局口だけで来ない人が多いから、僕も最初はその1人だと警戒されていたみたいです(笑)」
ヴレの建物は浜辺さんがデザインしたものだ。一度信用したらお互いとことん付き合い協力する、2人の関係性が羨ましく思えた。移住して改めて感じた町の魅力を訊いてみた。
「次の世代のために何かおもしろいことができないか、みんな真剣に考えているんです。そんな町って他にはないと思うんですよね」
そう話す村上さんも今年の3月にはある計画を温めていた。東川の中学3年生を対象に、フレンチのコースを食べさせるというものだ。
「食育って大切だと思うんです。この先町を出て行く子供たちに、食の観点からもこの町は素敵なところなんだよと教えてあげたい」
いずれは中学1年生から段階的に食育を行い、「今度は僕たちの番だ!」と楽しみにしてもらえるようなイベントに育てていきたいと村上さんは目を輝かせて語ってくれた。
村上さんが移住の手引きをしたお店がある。大雪山系と十勝岳連峰を望む郊外の田園風景の中に建つ、中国茶とおかゆを専門に提供する「奥泉」だ。奥泉富士子さんと斎藤裕樹さんは東京で長年飲食業に従事した後、札幌で「奥泉」を開業した。
「ヴレさんとは札幌時代に知り合い、互いの店に通う間柄でした。先に移住した村上さんが、そろそろ物件が空きそうだと教えてくれたんです」
奥泉さんが東川に移転を決めた最大の理由は、大雪山系の地下水だった。繊細な中国茶の味を左右する水を求めて、道内で水質が良いとされる場所を巡ってお茶を淹れて飲み比べた結果、ミネラルを多く含む東川の水が最も相性が良かったという。
それに加えて斎藤さんは、東川には文化的な香りがしたことも大事な要素だったと話す。東川町は1985年に世界で初めて「写真の町」を宣言し、毎年「国際写真フェスティバル」や「写真甲子園」を開催することで、町づくりを展開してきた。以前映画会社に勤めていた斎藤さんには、いつか映画館を作るという夢があった。その夢が、映画館のない東川で花開こうとしていた。敷地内の建物を改装して映画館を作る計画が進んでおり、手始めとして3月に奥泉の店内で2本立て映画の上映会を企てていた。欲しいものは自分で作ればいいというその姿勢に、東川イズムが感じられた。
奥泉が少し変わっているのは、ランチ営業をやらないことだ。それには奥泉さんの確固たる信念があった。
「うちはお茶が主軸にあるので、お茶を飲みに来る方を大事にしたいんです。ランチをやるとどうしてもバタバタしてしまって、札幌の時はお客さんが気を遣って帰ってしまうことが多々あり、それが嫌でした。せっかくいい景色を前にして何煎もお茶を飲めるんだから、ちゃんと価値を実感して帰ってほしい。そのためにはゆったりした時間が必要だし、自分ならそう望むはずですから」
儲けたければ都会でやればいい。効率を求めて営業するよりも、お客さんの満足度を高めてリピーターになってもらうほうがお店としては長続きする。奥泉さんはこう続ける。
「それに、やっている人の心が豊かじゃないと、来る人も豊かさを感じられないと思うんです」
東川でしかできないことを実現するために移転を決めた2つの飲食店。風が種子を運ぶように、新たな物語が今この町で芽吹こうとしていた。