マーク・アンドレ・ルクレール
ある若きアルピニストの素顔

歴史を積み上げていく者

一躍世界的に有名となったアレックス・オノルドだったが、彼が尊敬するクライマーとして挙げたのが、本作『アルピニスト』の“主人公”のマーク・アンドレ・ルクレールだった。クライミング界の情報に精通するピーター・モーティマーとニック・ローゼンの二人でさえ、マークの存在を長い間知らなかったのは、マークがメディアに取り上げられることを嫌い、SNSでも自分のクライミングの偉業を発表してこなかったからだ。そんなマークの存在を世間が見過ごせなくなったのは2015年、世界で最も困難な山の一つと言われるパタゴニアのフィッツロイ山群の鋭鋒セロ・トーレに、コリン・ヘイリーとともに新たなルートを開拓し登頂したことがニュースになってからだった。さらにその数日後にはこの山を螺旋状に登る最難関ルート、通称“コークスクリュー”の単独登頂を弱冠22歳の若者がやってのけた。この偉業はたちまちクライミング界をざわつかせた。

ニックは述懐する。
「ソロ・アルピニズムという、非常に珍しく、困難かつ危険、そして高度な技術を要するジャンルの最先端に挑戦するマークが、世の中の人々に全く知られていないこと自体が魅力的なストーリーだと即座に心を奪われました。マークは新たな歴史を作り上げるようなすごいクライマーであるにもかかわらず、全くの無名だったのです。一体この男は何者なのか? なぜ誰も彼のことを知らないのだろうか? きっと何かおもしろいことがあるに違いない、そう確信しました」

ピーターとニックはすぐに行動に移した。マークが暮らしているというカナダのブリティッシュ・コロンビア州スコーミッシュを訪ね、クライミングを楽しむ若者たちの中からマーク本人を見つけ出す。こうして映画『アルピニスト』の撮影はスタートした。当時23歳だったマークは車も携帯も、住む家すらも持っておらず、ガールフレンドで同じく屈強なクライマーのブレット・ハリントンと共に、岩場のそばにテントを張って暮らしていた。マークは20歳の時にスコーミッシュが誇る大岩壁グランドウォールの最速登頂記録を更新し、周囲のクライマーから一目置かれる存在だった。だがその偉業とは裏腹に、お調子者で明るく陽気に仲間たちに振る舞うマークの姿は、どこにでもいる無垢な若者に映った。

左からニック・ローゼンとマーク・アンドレ・ルクレール

マークは子どもの頃にADHD(注意欠陥障害)と診断され、学校生活に適応できなかったために、高校に上がるまでの大半の時間を自宅で過ごした。クライミングを始めたのは十歳の頃、地元ショッピングモールにあったクライミングウォールを登ってみたことがきっかけだった。たちまち登ることに夢中になったマークに母親のミシェルは、危険なことを承知の上で山に登る機会を与え、冒険物や登山の専門書も買い与えた。本編の中でミシェルは「子どもの頃に自由に冒険ができないと、自分の可能性に気づけない」とカメラに向けて語っている。母の寵愛を受けてのびのびと育ったマークは、初登頂の歴史を築いてきた偉大な登山家たちへの憧れから、「いつか自分が登山の伝統を引き継いでいこう」という野心を抱くようになる。それは純粋に、人間の挑戦の限界を押し上げて歴史を作っていくことであり、自分の偉業を世に示したいという思いではなかった。

スコーミッシュの岩壁で、ガールフレンドが麓で見守る中悠々とフリーソロをやってのけるマークの姿は、まるで木登りを楽しんでいる子どものようにも映る。スリルを味わうためでもなく、純粋に楽しい娯楽なのだろう。マークと親交のあったアレックス・オノルドは本編の中で、“スポーツ”としてクライミングを楽しむ自分と比較して「マークはスピリチュアルな次元にいる」と話す。

現代のフリーソロクライマーの代名詞的存在であるアレックスにそう言わしめる所以は、マークが岩と氷のミックスウォールでフリーソロをやってのけてしまうからである。硬い岩壁を手足のみで登るアレックスに対し、マークは凍える寒さの中で指とアックスを使い分けながら、薄い氷に慎重にアックスを突き立て、靴に付けたアイゼンの爪を岩肌に引っ掛けて登る。

本編では、この緊張感溢れる登攀シーンを臨場感たっぷりに撮影している。カナダのミックスクライミングの難所、スタンレー・ヘッドウォールのフリーソロを始め、氷河やクレバスの広がるカナディアンロッキーの最高峰、ロブソン山のエンペラーフェイスのフリーソロ、そしてマークにとっての最大の目標だったパタゴニアの難峰トーレ・エガーの冬季単独での初登頂に挑む姿が本作には収められている。歴史上誰も成し得なかった困難な挑戦を、マークのような新しい世代の若者が最年少で乗り越えていくということが、スポーツや登山の世界では往々にして起こる。先人たちの記録を、より困難な方法や短い時間で塗り替えていく者、そしてまだ誰も挑んだことがない新たな課題を見出して、自分だけの冒険を始める者が現れる。

「クライミング文化は、よりカラフルかつインクルーシブなものになりつつあります」

そう言ってニックは続ける。
「クライミングというスポーツは常に進化を遂げ続けています。今や世界中のどの都市にもクライミング・ジムがあり、山の側で育たなくとも、クライミング・ジムから世界屈指のクライマーを目指すことができる。こうして様々な人種、民族、性別、性的アイデンティティーを持つクライマーが参加することでクライミング文化は成長し続けているのです」

NEXT:
それでもなぜ登るのか