6月15日に刊行された文芸誌『MONKEY』vol.24(特集 イッセー=シェークスピア)は俳優・イッセー尾形と柴田元幸がシェークスピアの四大悲劇の一つである『リア王』にそれぞれ挑んだ特集です。イッセー尾形によるシェークスピア・カバー連載の最後を飾る「リア・アゲイン」と柴田元幸がシェークスピア作品の翻訳を初めて手掛けた『悲劇 リア王』を全文掲載しています。
以下は6月20日に刊行を記念してオンラインで開催されたイッセー尾形と柴田元幸によるトーク&朗読イベント時に募集した質問をWEB用に編集し2回に分けて公開。当日答えきれなかった質問も追加しています。当日参加された方はもちろん、参加できなかった方も、2人の“声”をぜひお楽しみください。
Q&Aコーナー
Q. 柴田さんとイッセーさんに質問です。今回、『リア王』を題材にされて、これまでと作品に対する印象が変わった点などがあれば教えてください。私自身は子どもの頃、児童向けの翻訳を読んだ時は、長女・次女の2人のお姉さんはとても酷いなと思いましたが、今ならある意味その気持ちや行動も理解できます(私は三姉妹の長女です)。
柴田 理解が変わったどころか、認識がほとんど180度入れ替わったみたいな感じです。例えば、一番有名な、リアが阿呆を連れて荒野を彷徨うシーンがありますけど、僕はあれは最後の第5幕だと思っていた。それがなんと第3幕なんですね。それさえも覚えていなかったぐらいで。
イッセー 僕もリアがすごく早い段階でおかしくなっちゃったなと思いました(笑)。『リア王』ってテンポが速いですね。
柴田 本当にそうですね。シェークスピアの芝居の中で、クライマックス中のクライマックスを挙げるとすれば、あの荒野のシーンだと思うんです。今回のMONKEY 24号の「猿からの質問」で「シェークスピアの芝居の中で一番印象に残っているシーンはどこですか?」というのを7人に聞いたわけですけど、そのうちの2人、津村記久子さんとレベッカ・ブラウンが『リア王』の荒野のシーンを挙げているし、書いてくれなかったけどポール・オースターもそうでした。「俺、書かないけど、書くとしたらあのシーンだな」って。そんなこと言うなら書いてくれよと思ったんですけど(笑)。みんなあそこが一番盛り上がるシーンだと思うわけだけど、それを物語の真ん中でやってしまう計算のなさ。計算ずくでやったらそうはならない気がするんです。
イッセー そうですね。だから今日柴田さんが朗読して僕が指人形で演じた「なんちゃってリア王」はダイジェストですごく短いですけど、これをちょっとずつ広げていくと本公演にたどり着ける、というのが僕の第一印象です(笑)。
柴田 そんな感じです(笑)。
Q. イッセー尾形さんは一人芝居、柴田さんは朗読という表現のかたちでもそれぞれご活躍されていますが、文字で書かれた作品世界を、声や動きに翻訳して表現することのおもしろさと、難しさはどのような点にあると思いますか?
イッセー もともと人間は生まれてすぐに「オギャー」と言いますから、動きと声は生得的なものなんです。その後しばらくして文字を習うことで、声、体、言葉が三位一体となる。人間はそれを子どものうちに体験して生きているものだから、自分がやっているものもその延長線上にあって、それをただただ舞台の上でやっている、と常々思っています。孫ができてからは特にそういうふうに思っています(笑)。
柴田 ある意味で朗読はファシズムのようなところがあります。映画を観るのや音楽を聴くのとは違って、本は一人ひとりが自由に自分の速度で読める。でも朗読は聴く人にその速度や、こういうトーンで聴けというのを強いる。これがあまり広がるのもよくないんじゃないかと思うんです。朗読が嫌だという人がいっぱいいるのはとても健全なことで、僕が訳した作家のT・R・ピアソンなんかも、「シェークスピアが朗読すると言ったって俺は聞きにいかないね」と言っています。彼が自分で朗読しているビデオもあるんですけど、本当に嫌そうに「早く読み終わってトイレ行きてえ」みたいな顔でやってるんです。だから朗読は時々自分の読み方の外に出るきっかけとして使ってもらえればいいかなと思っています。僕はプロの役者でもないし、プロの朗読者でもないので、こういうイベントをやる時に、まずとにかく作品の良さを分かってもらうのには朗読だった、ということだと思います。
イッセー 翻訳する時にぶつぶつ自分で朗読したりはしますか?
柴田 はっきり声に出しているわけではないみたいですけど、なんとなく口は動くし、頭の中で鳴ってもいます。さきほどイッセーさんがおっしゃった通り、文字というのは二次的に発生したもので、もともとは声があり身体があるんだけど、そこは自分の専門ではない。肉体にコンプレックスがあるので、自分の身体ではろくなことはできないみたいな気持ちがあります。だから自分が勝負しているのは文字のところなんだ、と。……と言いながらほいほい朗読しますけどね(笑)。
イッセー 朗読、本当に素晴らしいですよね。
柴田 あ、ありがとうございます(笑)。
WEB特別追加質問コーナー
イベント当日、時間の都合上答えることができなかった質問をWEB限定で特別に公開です。
Q. 『リア王』の登場人物の名前の印象について、「ゴネリル」=強そう(音に迫力がある)、「コーディリア」=可愛らしい感じというように名前と性格が合っているなと感じたのですが、お2人はどう思われますか?(本は読むのは好きですが、文学についても英語についても詳しくない、いち日本人としての質問です)
柴田 おっしゃるとおりだと思います。ゴネリルって何となくゴネそうで、コーディリアはいかにもcordialな(誠心誠意の)感じですよね。……って超テキトーに連想してますけど、夏目漱石だって、『野分』の立派な人は「白井道也」で『虞美人草』に出てくる浅い人間は「浅井」ですからね……「小夜子」と「藤尾」だって性格そのものですよね。
イッセー 本当ですね。ゴネリルなんて何でもゴネそうです。昔ケネディを暗殺したと言われているオズワルドも悪いイメージがあります。「ぐろすたあ」なんて絶対幸せにはならなそうですし、スペルはRですが車用語の“リア”は“後ろ”を指します。リア王、後ろ向きですもんね。名前だけでも楽しいです、シェークスピア。
Q.シェークスピアって、どうして飽きられることなく何百年も読み継がれているのでしょうか?
柴田 教師を30年やって、学生が何を好み何を好まないか、教師が(少なくともこの教師が)考えてもまったくわからないということがよくわかったので、なぜ~は好まれるのか、という問いを考えることはなくなってしまいました。でもまあシェークスピアに関しては、描かれている人間の幅の広さ、そしてそれ以上に、くり出される言葉の時に猥雑/時に崇高な活きのよさはたしかに群を抜いていると思います(って、誰でも言うことですが)。
イッセー フツーの庶民ではなく、お城に住んで特権ある人たちにも私たちと同じような情念が渦巻いてます。それが激しく大きなスケールで見せつけられます。ですから対岸の出来事なんだけど、こっちの胸にもズンと来るんでしょうね。いろんな魅力の一つだと思います。
Q.シェークスピア作品で『リア王』以外の好きな作品と、難解だと思われる作品を教えてください。
柴田
好きな作品
『夏の夜の夢』――ボトムら庶民のドタバタが楽しい
『あらし』――今回24号でスチュアート・ダイベックが素晴らしい文章を書いてくれて、この芝居の音楽性が好きなんだとわかりました。
『マクベス』――マクベスがずるずる堕ちていく感じがリアル
難解な作品
『オセロー』――オセローがなんであんなにイアゴーを信用するのかわからない
イッセー
好きな作品
『マクベス』――冒頭の予言以降、マクベスは自分であって自分じゃなくなります。魔女や夫人に「自分で生きる」ことをコントロールされてしまいます。これってすごく現代的な課題だと思います。悲惨な結末ですが、そんな自分を自覚しているのが、おかしな話でもありますが、救いです。
Q.シェークスピアに出会った/惹かれたきっかけを伺いたいです。
柴田 英文科にいたので嫌でも読むことになります。はじめはとにかく部分的にでも原文が理解できるだけで感激しました。
イッセー 19才で役者を目指した頃は不条理演劇が流行っていて、無意識という言葉がキーワードでした。「台詞と自分が気づかない意識とは違うんだよ」みたいなことを言われたような気がします。「は?」大変分かりづらいです。そんな時にシェークスピアをペラッと覗くと、本心はモノローグという形で観客に教えてくれます。自分と自分が完全に一致してます。分かりやすいです。でも時代は不条理。以来シェークスピアとは縁がなく過ごしましたが、このMONKEYを機会に、どれだけ妄想的な想像を注ぎ込んでも一杯にならないと驚いてます。まさに50年ぶりの再会です(笑)。
Q.数あるシェークスピア劇のなかでなぜ『リア王』を選んだのでしょうか。
柴田 『リア王』になったのはまったくの成り行きで、イッセー尾形さんのシェークスピア・カバー連載を締めくくるにあたってその回のカバー対象作品が『リア王』だったから、というのが実情です。でもそれですごくよかったと思います。選べるとしたら『リア王』はたぶん第2候補だったと思います。第1候補は『マクベス』。作品のスケールの大きさは『リア王』の方が上だと思うのですが、だからこそ自分の手には負えないだろうとずっと感じていました。まあ『マクベス』だって十分スケール大なんですが、人生の浮き沈み、のようなものを描いた作品として『リア王』と、旧約聖書の『ヨブ記』は桁はずれだと思います。
Q. シェークスピアの英文は、英語の音としての美しさなどもあるのでしょうか? 自分自身は、英語力低めなのですが、最近、外国語を読みながら感覚的に耳をそばだてる感覚を覚えました。当たり前なことなのかもしれないのですが、柴田さんが感じる言語の音、耳が感じる外国語の音としての感覚に興味があります。
柴田 とにかく舞台装置とかほとんどなしで芝居やるから、すべてを言語の音から想起させないといけない。バナナの叩き売りに負けない活きのよさがないとやっていけなかっただろうと思います。
Q.シェークスピアとは関係のない質問で恐縮です。昔から英米文学が好きで、最近は原文で読むことに挑戦するようになりました。しかし現状では文章の意味を理解することに手一杯で文章そのものの美しさを感じ取ることができません。名文家として名高いカポーティやフィッツジェラルドを読んでも、日本語で三島の文章を読むときに感じるような高揚感を得られません。このままずっと経験を積んでいけば感じ取れるようになるものなのでしょうか。柴田先生からアドバイスをいただけますと幸いです。
柴田 とうてい人さまにアドバイスできるような次元にはいないです。英語を読んでいて、いい文章だなあ、と僕が思ってもネイティブの達者な読み手からすると、こんなの陳腐だよ、ということになってしまう場合もあるし、逆もまた真。でもだんだん読んでいくうちに、ああ自分はこういう文章を読むのが好きなんだなあ、こういうのを読むのが気持ちいいんだな、と思う書き手が現われると思います。そう思う作家はカポーティやフィッツジェラルドだとは限りません。そもそも彼らが(三島だって同じです)名文家なのだと法律で決まっているわけじゃないですから。
特集 イッセー=シェークスピア
1,540円(うち税140円)