ひがしちかさんは、わたしが友達とやっているヘンテコなパフォーマンス集団、「鉄割アルバトロスケット」を、いつも親子で観に来てくれます。なんでも娘さんの、いろはちゃんが、「鉄割」のことを好きでいてくれてるそうで、今回のインタビューに一緒に来れるかもしれないということでしたが、『ハリー・ポッター』の映画を観ることになってしまったらしく、来れませんでした。そのかわり、いろはちゃんから、素敵な手紙をいただきました。どうもありがとうございます。また今度、会いましょう。
お母さんの、ひがしちかさんは、傘を作る方で、「コシラエル」というブランドをやっていて、清澄白河にお店があります。ひがしさんの作った傘は、「パッ」っとひらくと、「ポッ」と世界が広がるような作品です。そして、ひらいた先に、いろいろな物語を想像することができます。ひがしさん自身も、傘のような、「ポワッ」という雰囲気があります。
今回、お話をうかがってみると、このような傘をつくるまで、かなりの紆余曲折、ハードな出来事があったようです。けれども、だからこそ、ひがしさんの傘には物語が詰まっているのだと感じました。長崎でのびのび育ち、ファッションに憧れて上京、その後、いろいろあって、傘を作り出すまでの、ひがしちかさんのインタビューです。
(戌井昭人・記)
「お生まれは?」
「長崎県、諫早市の有喜町です。橘湾という小さい漁港で、電車も通ってなくて、バスも二時間に一本くらい、中学になったときにやっとコンビニができたようなところです」
「そこでどのように育ちましたか?」
「わたしは、四人兄弟の三番目で、父が車の整備工場をやっていて、敷地内に、父の手作りの家があって、そこに住んでました」
「子どもの頃は、なにをして遊んでいましたか?」
「隣の畑で遊んだり、海で泳いだりしていました。海にある石の上をいかに早く走れるかとか、深く潜って自分の限界に挑むとか。潜ると怖いじゃないですか、途中で水が冷たくなってきて、ドキドキする感じも好きでした」
「釣りは?」
「釣りはしなかったけど、手づかみで魚をとったり、潜ってモリで突いたりしてました。あとこっちでいうサザエの小さいの、ミナっていうんですけど、それをとって茹でて、マチ針で中身をくるくるって取って食べたり。遊びながら、食べ物をとるのが楽しかった。他に、ヒトデが綺麗で好きで、三十匹くらい家に持って帰って、お風呂に入れといたら、次の日、ひっくり返って全部浮いて、『ギャーッ』。いまでもトラウマになってます。あと、どんぐりをとってきて、オルゴールの箱に入れて、思い出したころに開けてみたら、蛆虫がいっぱいわいてたとか。好きだったものが嫌いになってしまって」
お姉さん、お兄さん、ひがしさん、妹さん。どのような家族だったのでしょうか?
「姉は、海外の音楽とか好きで、学生時代に海外に行ったりするようになります。兄は勉強好きで、小学四年生のころ、ハンダごてで時計を作ったりしてて、中学になってもランドセルで学校行ったりしてました」
「中学でランドセル?」
「はい。あとマイケル・ジャクソンが好きだったんですけど、当時、マイケル・ジャクソン好きってのは、『うわー、ダサか。お前の兄ちゃんダサか』って感じだったけど、気にしてませんでした。すごい優しかったから、わたしは好きだったんですけど、お兄ちゃんは、当時わたしのことをあまり好きではなかったんです。田舎だったから、同世代にヤンキーがたくさんいて、わたしは目をつけられてるから『中学入ったら、目立つな』って言われてました。兄が中学三年のとき、わたしが一年生で、ある日、晩御飯のときに、牛乳をバシャってかけられました」
「どうしてかけられたの?」
「クラスのヤンキーに、『あんたの妹、ちょっとふざけとる』とか言われたみたいで」
「お兄さんは、それが気になってたんだ」
「そうみたいです。でも、わたしに直接言えなかった。それで、わたしが、ふざけて偉そうにしてたから、お兄ちゃんは、プルプルってなってきて」
「限界に達して、牛乳をバシャっと」
「そう。『だけぇ、お前のせいやんか!』って牛乳を。でも本当に優しくて、兄が大学に入ったとき、わたしと妹で遊びに行ったんです」
「場所はどこですか?」
「福岡の大学で、寮に行ったら、絵に描いたような貧乏学生がたくさんいて、寒かったので、みんな布団かぶって勉強してました。そしたら、お兄ちゃんは『寒かろう』ってオーブントースターをつけてくれて、『ここで暖まれ』と。さらに『疲れとるやろう』って、アリナミンをくれたりしました。それで夏に行ったら、今度は『暑かろう』って、一晩中、団扇であおいでくれたり」
「お兄ちゃんはいまはどうしているんですか?」
「予備校の先生してます。自分で会社を作って」
お兄さんから、ひがしさんの話に戻りますと、とにかく、ひがしさんは自然の中で遊んでいた印象です。
「畑を燃やしたり」
「え? 焼畑の手伝い?」
「いえ。田舎でなにかと火を使うことが多かったんです。ゴミ収集車も来ないようなところだったから、家庭から出るゴミは庭に埋めるか、ドラム缶とかで燃やしてたんです。お風呂も火で炊いてました。そこで見せたくないテストを燃やしたり。あと隣の家に同い年の子がいて、その子と遊んでました。そこでは豚を飼っていて、ほかに、苺とか人参を育ててる農家だったんです。あるとき『遊ぼぉ』って行ったら、『ちかちゃんの声がせんね、手伝わんね』て言われて、手伝わなきゃ遊べない感じになりまして、中学の頃は、イチゴのパック詰めを手伝ってました」
「子どもと大人が一緒になっている感じですね」
「家も自動車の整備工場だったので、車好きのお兄ちゃんたちがやってきて、一緒にバスケットボールしたり、映画に連れてってくれたりしました」
「遊んでいて怪我とかはしなかった?」
「小学一年のとき、同世代で学校の行き帰りしてたんですけど、その途中、稲刈りをした後の田んぼがあって、男子が、そこに飛び降りられると言って、飛んだんです。それで、わたしも飛んで、家に帰って、トイレに入ったら、パンツに血がついてたんです。『お母さん、パンツに血がついとる』って言ったら、お母さんは生理がきたと思ったんです」
「小学一年で」
「それで病院に行ったらおそらく刈りたての稲で切れてて、縫うことになって、でも、そこでは麻酔ができず」
「うわぁ」
「看護師さんに手足を掴まれて、あたしが『ギャー』って泣いていたのを見て、お母さんも泣いてたのを憶えてます。そのあと、キリンの巾着袋にシルバーの缶を入れて、缶には脱脂綿とピンセットが入っていて、おしっこしたら、自分で消毒してました」
話がそれましたので、ひがしさんの話に戻ります。
「部活は?」
「中学はバスケットボール、小学生の頃もバスケをやっていて、県で一番になったことがあるんです。さらに、わたしキャプテンだったんです」
「すごい。それじゃあ中学は、ほぼバスケ漬けですか?」
「でもね、うちは、勉強しなさいの家だったんです。『努力しない奴に飯は食わせん』とか『お前たちは、こんな田舎で一生を過ごすな』『学生の仕事は勉強だ』って父に言われてました。とにかく、もっと外に出ろと。父は、自分も出たかったんだろうけど、いろんな事情があって出られなかったみたいで」
「でも勉強がわからないと、お兄さんに教えてもらえた」
「はい、兄も父も教えてくれました」
「高校は?」
「市内の進学校に行きます」
「高校生活は、どんなでした?」
「本当に勉強ばかりの学校で、朝六時のバスに乗って、一時間目がはじまる前、七時の補習に出たりしてました」
「とにかく勉強ばかりだったんですね」
「でも、勉強をしなくなるんです。高校二年ぐらいから、いかにサボるかという方向に向かって」
「なにしてサボってたんですか?」
「町の本屋さんに行ってファッション誌を読んでました」
「それで、ファッション方面へ行きたいと?」
「将来のことはあまり考えてなかったけど。ファッション誌を見て、こういう世界があるんだと驚いたんです。ハイファッションのビジュアルや、オートクチュールのドレスを着て宙に飛んでるような写真があって、ビックリした」
ひがしさんは、勉強をサボっていたことによって、町の本屋で将来の道につながるようなものを見つけたのかも。
「雑誌の裏を見ると東京の住所があって、『全部東京でつくられとるばい!』、『東京に行けば、全部あるじゃないとね!』と、東京への憧れが加速します。それで近所に、田舎なのにハイファッションの服を扱う店があって、そこに行くようになり、こっそりバイトをして服を買ったり、自分で作るようになります。で、ますます勉強しなくなって、これでは大学に行けないぞ、となりまして」
「ファッション誌と自分がつながっている感じだったのかな」
「妄想ですよ。さらに東京に対する妄想も」
「でも高校三年になったら、進路を決めなくてはならない」
「もう、大げんかです。父とは、だんだん会話もなくなって」
「お母さんは?」
「母はあっけらかんとしてたけど、お父さんが言うならって感じでした。それである日、『流行通信』の編集部に電話をかけて、『撮影現場に行きたいんですけど』って話したら、『いいですよ』と言われて、置き手紙をして、長崎空港に行ったんです。そしたら空港に警察の人がいて『ひがしさんですか? 一緒に帰りましょう』と言われて、帰ったら、めちゃくちゃ怒られました。でも、とにかく洋服を作れれば生きていけるという話の流れになって、それを説得材料にしたら、父と母は、なんとかわかってくれて、文化服装学院に行くことになります」
ひがしさん、いざ東京へ。