「最初はどこに住んでたんですか?」
「千葉の松戸です。3カ月お姉ちゃんと住みました。でも、そのとき父が余命1年と言われてたんですが、半年で亡くなり、さらに姉も結婚することになり、代々木上原の風呂なしアパート四畳半を借りました」
「銭湯通い」
「近くの『大黒湯』へ毎日」
「アルバイトは」
「『なか卯』。学校の課題が多くて、土日しか出れなかった。あとは、夏休みに実家に帰る飛行機代を稼ぐため、工事現場とか」
「工事現場?」
「交通整理とか開いたマンホールを守ったり」
「マンホールを守る?」
「犬が落ちないようにとかです。あとはパン工場です。そこでは商品にならない焦げたパンとかをはじくんだけど、それを食べたりしてたら、気持ち悪くなって」
「卒業後は?」
「就職活動はしないで、焼肉屋でアルバイトをしてたんです。当時は、長崎出身の女の子3人で住んでました」
「アルバイトは、ファッション系じゃなかったんですね」
「でも、『WWD』というファッション情報誌の記事に、週間スケジュールというのがあって、それを見ては、フェラガモのコレクションとか記者会見に、呼ばれてもいないのに行ってました。とにかくファッションが何なのかわかってなかったけど、知りたかったんです。それで、ちょろちょろしてたら、一緒に住んでる友達が働いてたヘアメイクの人の奥さんが、フリーのプレスの人で、友達がわたしのことを話したら、大きなブランドのデザイナーが日本に来てるからいらっしゃいと誘ってくれたりして、そこから、コレクションのDMの発送とか色々手伝うようになります」
「それは焼肉屋でバイトしながら?」
「はい。それでわたしは、シアタープロダクツというブランドが好きだったので、その人が電話して『何にもできないけど手伝わせてくれない?』って話してくれて、手伝わせてもらうようになります」
「焼肉屋は」
「最初は、バイトしながらでした」
「シアタープロダクツは何年くらいいたんですか?」
「二年くらいです。立ち上げの頃だったから、なんでもやってました」
「どうして辞めたんですか?」
「絵本を書きたいと。まあ他にも、いろいろな思いはあったんですけど。それで中華料理屋でアルバイトしながら、絵を描いて、出版社に持って行っては、断られてました。でも絵では埒があかなくて、やっぱ就職だと。それでニット会社で1カ月くらい働きます。そのころ、いろは(娘)のお父さんと会って、すぐ妊娠をしました。で、結婚はしてないんですけど、産んでから半年くらいして別れました」
「それからはどういう生活だったんですか?」
「まず目黒区役所に行ったんです。そこでオムツ替えて、給水機でピーって水飲んで、どうしようかと思ってら、1階のロビーに『お困りの方』と書いてあって、そこに行って事情を説明したら、女性支援センター、シェルターみたいなところに1週間入れてくれて、1カ月後に区の母子寮に入れてもらって、そこで生活してました」
「仕事もしなくちゃいけませんよね」
「渋谷にマザーズハローワークというのがあって、毎日通って求職表を見て、手続きして、受けてたけど全部落ちて、派遣のアルバイトをしてました」
「なんの派遣ですか?」
「電気会社の受付です。制服を着て1年間やりました。それまでは、自分の人生が1番だったけど、子どもが生まれたら、1番が子どもで、自分が作るものなんてダサいと思えて、全部ひっくり返りました。それで、まずは食べていく、普通のお母さんになりたいというのが当面の目標でした。そのときは、冷蔵庫も洗濯機も母子寮から借りていたから、あと3カ月で冷蔵庫が買える、みたいな目標があるのも結構楽しかった」
「そこらへんで、生活も少し落ち着いていった」
「でも、わたしは猫かぶっていたのかも知れません。『お母さんでなくちゃならない』といった思いとか、受付の仕事も、本当は苦しくて。自分はどこにも無いし、精神的に疲れていきました」
「飲み会とかには誘われなかったの」
「わたしなんて、アウトオブ眼中ですよ。みんなの会話には全然参加できてなくて、とにかく1日中座ってればお金がもらえるとしか考えてなかった。毎日悶々と、『いらっしゃいませ』って言ってました。居眠りしたり、いたずら書きして、怒られたりも」
「1年で辞めてからは?」
「毎日図書館に行ってました。自分がもっと楽しいと思える仕事をやるにはどうしたらいいのか、考えようと」
「図書館には、どのくらい通っていたんですか?」
「3カ月くらいです。それで独立しようと思ったんです。子どもが『ただいま』と帰ってきたら、『おかえり』といえる環境を作ろうと」
「そこで、アイデアが浮かんだ」
「ぜんぜん。とにかく、なにをしたいか、なにができるかをノートに書いて、ミシンとハサミがあったから物を作ろうと思って、子どものアクセサリーとか作ったけどパッとしなかった。で、ある日の夕方、子どものお迎えがそろそろだと、玄関に行ったら、何年か前、傘に絵を描いたものがあって、これかもしれないと」
「ひらめいた」
「いや、ひらめいたというよりも、これかもしれない、これかもしれないぞと、すがるような感じでした。でも、そこからは早かったんです。まず傘を分解して、どういう作りか知って、世の中には、どんな傘があるか調べて、当時はパソコンも持ってなかったので、母子寮の事務室のタウンページで傘屋さんを探して、電話して、傘の骨とかは、どうやったら買えるか訊いて」
「傘の問屋さんて、馬喰町みたいなところに集まってるんですか?」
「いえ、大手が2社あるんですけど、ほとんどが小売の職人さんたちで、あとは中国です。でも職人さんも、ご高齢で、5年後は国産がなくなるかもって言われてます」
「じゃあ、パーツを揃えていくところから」
「はい。最初、タウンページで調べたところは、草履、履物の店で、傘の修理ができるとこだったんです。そこに昔の在庫があって、企業が修理用にと数本傘骨を残しておくのです。それがあるからと行ってみたら、20年前の10本を譲ってくれたんです。その中に傘のサンプルでとっておいたハンドルとかもあって、それがすごい格好良かったり、綺麗だったり。そういうのを見てたら、企業が100本同じのを作るなら、自分は1本だけ作るようなことが、やりたいことかもしれないと思って、ピタッとハマったんです」
「いよいよという感じですね」
「でも生地を買うにも高くて、だったら、白地に自分で描けばいいと思って、まずは10本作って、展示させてくださいと近所にあったギャラリーに持っていきました」
「それが何年前ですか」
「6年前ですね」
「ギャラリーでは売れましたか?」
「30本だして、20本売れましたけど、友人たちのお情けもあったと思います。でも、とにかく、自分のやりたいことをやろうと、それ以外ではお金をもらわないようにしようと決めました。その展示のときに、国立新美術館のミュージアムショップの人が来てくれて、『2週間後催事のスペースがあるんですけどやりませんか?』と言ってくれて、それで、『やります』って答えました」
「2週間後に出す作品はあったんですか?」
「なかったんです。それからは、ほとんど寝ずに作ってました」
「もちろん傘が素晴らしかったのもあるでしょうけど、ミュージアムショップの人は、そのとき、どうして誘ってくれたんでしょう?」
「わたしも後から聞いたら、こんな傘は他にないなと思ってくれたのと、『ちかちゃんが必死そうだったから』って言われました」
たしかに、必死な状況でもあった、ひがしさんですが、傘と出会って、そこに光のようなものが照らされたのかもしれません。
だから、ひがしさんの作る傘には、濃密な物語が詰まっているのです。
「日傘とか作ってると、稼ぎのある旦那の奥さんの余暇、主婦作家みたいに思われることがあります」
「まったく違いますもんね」
いくら生活がハードになっても、ユーモアやポワッとした感覚を失わなかったのは、娘さん、家族や周りの人々、そして、ひがしさんの、ぎりぎりでみせた、根性やふんばりの賜物です。
最後に写真の浅田くんとひがしさんがしていた会話を。
浅田くん「ひがしさんは、同じような体験をしている女性の前で講演したりしないんですか?」
ひがしさん「嫌ですよ、恥ずかしいです」
浅田くん「ひとりでやっていこうと思っている女性で、ひがしさんの話を聞きたいと思っている人は多いかも」
ひがしさん「でも、そういうので、お金もらうのは申し訳ないですし」
もし、ひがしさんと同じような体験をしている女性が、このインタビューを読んだら、希望を与えることができるかも知れません。
そして、これからも素敵な傘を作り続けてください。
<プロフィール>
ひがしちか 1981年生まれ。2010年7月「日傘屋Coci la elle」と称して初めての日傘の展示を開催。ひとつひとつ手描きの絵柄と刺繡の1点ものが人気を博した。絵を描くことは、愛すべき日常にある形のないものを収集するような行為、というのがひがしの大切な教え。清澄白河にアトリエを併設した「コシラエル本店」を構える。今年初のビジュアルブック『かさ』を刊行
Coci la elle
戌井昭人 1971年東京生まれ 作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』
(本稿は9月20日発売『SWITCH Vol.35 No.10』に掲載されたものです)