串田さんの芝居で、わたし自身が大きな影響を受けたのは、シアターコクーンで上演された「ゴドーを待ちながら」です。2002年だから、いまから15年前のこと、客席をまったく使わず、舞台に客席があって、入り口が楽屋口だった。
なんだか、いろんなことが訳わからなくなってきたのですが、観終わった後、「そうか、これでいいのだ」と思ったのです。そして、いまだに何かを創ろうとしているとき、なんだか自分でもわけがわからなくなったとしても、自分が「これでいいのだ」と思えば、とにかくやってみようという気持ちになりました。
このように、大きな影響を受けた方なので、「あの芝居、すごかったな」と思い返しながら、緊張して串田さんのことを待っていました。しかし、インタビュー場所のレイニーデイ・ブックストア・アンド・カフェに現れた串田さんは、会った瞬間から和やかな気持ちにさせてくれ、緊張は、すぐにほぐれていきました。
さらに、串田さんが子供時代を過ごした場所が、わたしが育った場所と物凄く近くだったので、親近感すらわいてきました。そこは、井の頭公園の近くの牟礼という所で、戦後、ここにいた人たちの話がめっぽう面白かった。
そんなこんなで、牟礼の人たちのことを多めに載せてしまいましたが、どうかご勘弁を。でも本当にユニークな人たちなので、きっと楽しく、もっと聞きたいと思うことでしょう。では、戦後の牟礼の奇妙な人たちを覗いてきた串田和美さんのインタビューをどうぞ。
(戌井昭人・記)
「お生まれは」
「築地の聖路加病院で生まれました。そのとき住んでたのが千代田区の三番町あたりで、そこは爺さんの家だったんだけど、もう亡くなっていて、大きな家だったから、掃除も大変だしということで、僕が生まれて、巣鴨に引っ越したらしい。そこから疎開です」
「じゃあ、記憶は疎開したくらいからですか?」
「そうですね、疎開の前の記憶は、2歳の頃で、焼夷弾がピューピューと落ちてきて、『綺麗だなぁ』って、でもそれは親に言われたから覚えているのかもしれません。あと巣鴨の家に文机があって、そこにピンポン球みたいのが転がっていたのを覚えているけど、それが一番古い記憶なのかな」
「疎開は、どこにしたのですか?」
「山形県の新庄から少し離れた荒小屋という土地だった。それで、3歳の誕生日に広島に原爆が落ちたんだ。でもすぐに東京には帰れないから、次の年の秋くらいまでいました」
「疎開の思い出は? 疎開というと都会の子供はいじめられたとか、よく聞きますが」
「まだ学校には通ってないから、いじめられたとかいう記憶はない。親は不憫だと思っていたみたい。食べ物もないしね。それで疎開先では、いろんな景色の記憶があって、最初は住むところがなかったから、2、3日旅館みたいなところにいたんだね。セーラー服を着た女学生が、お茶を出してくれたりしてたな。それから農家の家を借りたんですけど、そこは土間に牛がいて、通るのが怖くてね」
「土間に牛」
「はい。あとは、そこのおばちゃんが、ベッカの母ちゃんって呼ばれてた」
「ベッカって牛のことかな」
「それもあるんですけど、別の家って意味かもしれない。とにかくベッカの母ちゃんと呼ばれていて、太っていて威勢のいい感じでした。孫一(串田孫一/哲学者。串団さんのお父さん)の日記を読むと結構大変だったらしんだけど、僕は呑気で楽しかった記憶があります。弟がよちよち歩いてて、小川でカエルを見ているうちに感情移入して、ヒュッと飛び込んじゃったり」
「弟さんどうなったんですか」
「近所の兄ちゃんに助けられたりして、大騒ぎしでした。あとは、雪が降ったとき、父がおんぶしてスキーで滑ってくれたり。薪を拾いに行ったり。それで、いつまでも世話になっていられないからということで、バラックみたいな家を建てるんだけど、棟上げ式があってね、そしたら父が神主さんと一緒に台に上がって立ってたんだ。そのとき父は、痩せてて、黒いコートを着て、髪の毛がバサッとしてて、子供ながらに、なんか似合わないなって思った」
「不釣り合い」
「そう、そんな感じがしてた。場違いな人だなって。それで向こうの習慣で、お金とお餅を投げてたんだけど、それを思いだすと、なんだか切ない気持ちになって」
「どうしてですか?」
「田舎に似合わない人だな、って。違和感があってね」
「その家に住んでいたときの思い出は?」
「母方のおじいさんが訪ねて来てくれて、そのとき、武井武雄の絵本を持って来てくれた。あと空襲はあまりなかったけど、防空壕があって、そこに逃げたとき、床屋の5歳ぐらいの子供が防空壕の上に立って、素っ裸で、『日本帝国バンジャーイ』って叫んでた。みんなは『危ない危ない』って中に戻してたけど」
「のんびりしているようだけど、なんだか狂気が」
「そうなんですよ。撃ってくるかもしれないんだから。まあそれでも、のんびりしていたのかな。でも親は慣れない農作業を手伝ったり大変だったみたいです」
「それから、東京に戻ってくるんですか?」
「そう。それでね、戻る前に、ベッカの母ちゃんてのが、村芝居に連れてってくれたんだ。それが最初に観た芝居です」
「村歌舞伎みたいな」
「そう。たぶん地元の人がやってたんだね。小屋がなくて、ムシロで囲った小屋だった。そこに裸電球がぶら下がってた。それまでは灯火規制で暗かったのに、あんなに裸電球がぶら下がってるのかと思った」
「戦争が終わって、いきなり明るくなった」
「それが眩しくて、綺麗だと思ったんです。あとは、おにぎりを食べてたんだけど、僕の中では大きなおにぎりだと思ってたけど、今考えると手が小さかったんだね。そのおにぎりの海苔が、今のものより磯の匂いが強くて、匂いを覚えてます。あとは、ムシロに座ってたら、だんだん暖かくなってきて、藁の匂いがしてきたのとか、お百姓さんたちが、大きな声で笑って、口の中が見えるような、そんな光景でした」
「匂いも、味も、光も、笑いも」
「それが一気に入ってきたんですね。親の知らないことを自分がしている最初の記憶です。どうして演劇を始めたのかと訊かれると。その光景があるからなんじゃないかと、無自覚だけど、芝居に最初に近づいた記憶」
「頭に焼き付いている感じですね」
「はい。それが新庄の最後の記憶かもしれない」
疎開先から串田さんは、東京に戻ります。
「東京に戻ってからは、どこに住んだんですか?」
「武蔵野の、牟礼ってところです」
「自分は調布なので、牟礼は近くです」
「そうなんだ」
「いまも、畑とか残ってますね」
「そうですね。そこに4歳のときに移りました。井の頭の牟礼の生活は、ものすごく強烈で、芝居を作るときの原風景が詰まっています」
「たとえば?」
「木樵みたいな人がいて、金造爺さんという人で、腰が曲がってるんだけど、庭の木を切ってくれと頼んだら、スイスイ木に登っていったり。三鷹第五小学校ってのが建てかけの最中に台風が来て倒れちゃったり、軍人の洋館があったり。よく立川の方から進駐軍がジープでバーっときてはビールの空き缶を投げたりして、僕らはそれを拾ってた。めずらしいから取り合いしたけど、同時に何となく屈辱感も感じたり」
「今でいうと、その洋館はどこらへんなんだろう?」
「井の頭の動物園の裏あたりから、人見街道に向かう途中だった」
「今は住宅地ですね」
「でね、とにかく、その辺りには笑っちゃうような、いろんな人がいました。もうどこから話したらいいのか、とにかく変な人ばかりで」
それでは串田さんに、当時の変な人を紹介していただきます。
『新川のまーちゃん』
「新川って場所の、新川のマーちゃんは、缶を紐でぶら下げてて、棒を持って、いつも同じような時間に、ガラガラ音立ててやってくるんだ」
「目的もなく?」
「そう、それで、子供達の間では、勉強をしすぎるとああなってしまうということになってました」
『居眠り婆さん』
「居眠り婆さんはね、小さなおせんべいを入れた袋を持ってて、電車に乗るんだけど、『切符は?』というと、おせんべい出しちゃうんです。でもまあ、しょうがないかと電車に乗せてもらってた。それでね、防火用水のところで。いつも寝てた」
「切符が、せんべい!」
『雷おやじ』
「雷オヤジは、すぐ怒る。まあ僕たちが勝手に人の家に入っちゃってたんだから、今考えれば怒られて当たり前なんだけど。鉈を持って追いかけてきたりするんだ」