『泥棒』
「あとね、泥棒って人がいてた」
「泥棒?」
「見た目がいかにも泥棒、三船敏郎と原田芳雄を混ぜたような人で」
「格好いいですね」
「そうなんだよ。渋い顔して、髪の毛も眉毛も濃くて、こげ茶のとっくりセーター着てて、兵隊ズボン、地下足袋を履いてるんだ。泥棒は、お母さんと一緒に住んでいて、お母さんは小さい人で、いつも『すいません、すいません』と謝りながら歩いてたから、やっぱ泥棒の母さんだから謝ってんだと、子供は勝手なこと言ってた。原っぱの真ん中にバラックみたいなのがあって、そこが泥棒の家なんだ。あるとき、子供達で泥棒の家を探検しようということになって」
「子供は暴走しまくりますね」
「ほふく前進して原っぱを進んでね。それで泥棒の家を覗いたんだ。ドアの隙間から。そうしたら、マリア像があって、光が部屋に差し込んでいて、その光が像に当たってていた」
「神々しい」
「びっくりしてさ、泥棒の家に後光が差すようなものがあるんだ。それでみんな黙ってしまって、なにも喋らず帰りました。そこで泥棒という概念が消されたんだけど、どうしても次に当てはまるものがない」
「泥棒は、見た目だけだったと」
「そう。泥棒は悪い奴じゃなかったという概念」
「当たり前の道徳観が揺らぐというか、和らいだというか」
「そうなんだ。それでそのとき住んでいた家には、玄関の脇に孫一の書斎があって、そこに、本当の泥棒が入ったことがあるんだ。その泥棒は、そっと静かに入ろうとして、窓枠のパテを外して、ガラスを外して、地面に置いて、鍵を開けて入ったらしんだけど、本だらけで盗むものがない。そこで万年筆だけ盗んでいったんだ。でも昔の物書きは、何年もかけて自分の万年筆のペン先を育てるから、『あれじゃなきゃ。やっと馴染んだのに』と悔しがっていた」
「そうですよね」
「あと残念だったのが、外したガラス窓を、外に出るとき、踏んだらしく、割れてたんだ。それを悔しがってたな」
「せっかく綺麗に外したガラスだったのに」
「そうなんだ。子供ながらに、変なこと気にしてるなと思ったけど。あとはね、足跡があって、そこには地下足袋みたないのがあったんだ」
「泥棒は、あの泥棒かも」
「そう、ぼくは、あの人なんじゃないかなと思ったんだ。でも言わなかった。言えなかった」
「マリア様を見てるし、概念も揺らいでたから?」
「そうなんだ。そんな記憶があります」
『宝くじに当たった家の子供』
「宝くじに当たった家があってね、そしたら、その子供が、白いセーターを着て、コールテンのジャケット着て、これ見よがしに歩いてたな」
『向かいの家のセロ弾き』
「向かいに住んでたのは、宮内庁に勤めていた人で、あるとき菊の紋の付いた馬車が来て驚いた。その家にはセロを弾く人がいて、離れの小屋で、いつも弾いてたんだ。杉の皮が張ってあるような小屋で、そこを覗きに行ったんだ」
「また覗きだ」
「そう、子供だから、すぐ覗くの。そうしたら裸の女の人の背中があった」
「あら!」
「いま思うと、マン・レイの写真みたいで、見ちゃいけない、大人の世界を見てしまった」
『絵描きの真垣さん』
「真垣さんという絵描きは、よくうちに遊びにいきてて、フルートはじめましたと言って、吹いてくれるんだけど、息の音しか聞こえない。『シュー、パッポ、ヒャー』って。本人は、吹いてるつもりなんだけど。あと真垣さんの家に、お風呂ができたから、遊びに来てくださいと言われて、父と行ったら、『そこの庭にお風呂沸いてますから、あったまってますよ』って、そしたらドラム缶の風呂あってね、僕は孫一と入ったんだけど、足のところに何かあって、『なにかありますけど?』って訊いたら、『それ洗濯物だから踏んどいてください』って」
「なんというか」
「でね、僕は、その家に弟と、絵を習いに行くようになったんだ。そうしたらそこに裸の女の人がいて、みんなで描いてるんです」
「子供も混じって?」
「僕たちは、目の前に果物を置かれて『これを描きなさい』と」
「でも、向こうには、裸の女の人が」
「そうなんだ。それで、真垣さんは、『綺麗なおっぱいだな!』とか言ってるんですよ」
「奔放なおじさんですね」
「でね、通っていうちに、あるときから同い年くらいの女の子が絵を習いに来たんだ。可愛い子でね。でも、その女の子と裸の女の人がいるというのが、どうにも落ち着かなくて。その子が来たら、僕は耐えられなくなってきて、行かなくなっちゃった」
牟礼時代の濃い人たちは、まだまだいるそうで、今度じっくりお話を聞かせていただきたいです。では、終わりがあるので、次に行ってみましょう。
「牟礼はいつまで?」
「中学の終わりくらいまでです」
「中学の頃は、どんなことしてましたか?」
「山登りに連れていかれて、それからは、ほとんど山登り。三年の頃は、山岳部のキャプテンになって、冬にも登るようになった。その頃に、家の前の細い道が広くなるので、工事がはじまるということで、それで引っ越しをしたんだね。結局工事はなかったんだけど。それで小金井に山小屋みたいな家を建てて引っ越しました」
「串田さんは、そこには、どのくらいまでいたんですか」
「高校生から、俳優座養成所、文学座に行って、自由劇場を作るまで、二十代の中頃までいました」
「芝居への思いが芽生えたのは?」
「中学の新入生歓迎で、お芝居をやってたんです。『瓜子姫とあまんじゃく』っていうもので、観ていたら、ヤジ飛ばす奴とかいて、『つまらねえぞ、やめちゃえ』ととにかくひどくて、しまいには、そいつが舞台に上がって、先生が出てきて、揉めてるの。でも、ちょっと待てよと思ったら、その先生も子供だった。それも全部お芝居だったことに気づいて、すげえなと。芝居はこんなことができるんだと思ったんです。世界をひっくり返すことができるんだと。それで一緒に観ていた友達と演劇部の部室に行ったんです」
「いよいよですね」
「でも、誰もいなかったんだ。そしたら机にドーランがあってね、これで顔を塗るんだと、蓋を開けたりしてたら、国語の先生がやってきて、『そのニオイ嗅いだらやめられないよ』って言ってニヤッと笑ったんです。『えー、嗅いじゃった、どうしよう』って。そこから演劇をはじめたんです。それでね、僕が観ていた芝居は、瓜子姫が長山藍子さん、ヤジを飛ばしたのが山本圭だったんです」
「はじまりは、ニオイ。子供の頃の芝居小屋の、オニギリの海苔やムシロの匂いもありましたね」
「それはニオイいというしかないものがあるんだ。全体を捉えるニオイ、未来を感じたり、過去を感じたりするニオイ」
「ドーランは、具体的にはどんなニオイだったんですか」
「桃山というメーカーので、椿油が混じっていたんだ。あまり良いニオイではなかったけど」
「そして、『そのニオイ嗅いだらやめられないよ』と」
「その先生は松田先生といって、文化祭になると、先生なのに白塗りして、パントマイムとかやっている。民芸の研究生とかまでいったらしくて、だから余計に、やめられないよっていうのがあったんだね」
「それからは山と演劇」
「いろいろ掛け持ちしてました、山に登る体力をつけるために、サッカー部に入ったり」
「山はどんなところが良かったんですか?」
「山って、一人で行くと、誰にも見せない自分がいるんです。それで、一人のときって、実はキチンとするというか」
「キチンと丁寧に?」
「そう。山の上って昼飯食うのにも、あの岩の上にしようとか考える自分がいて、外から、自分を考えるんです」
「なるほど」
「それでね、これは何だろうなと思って、なんというか、自分のために見せるお洒落というか、気取って笛なんか吹いたりしてね。客がいないお洒落」
「一方で、芝居は人に見せるお洒落」
「そう。極端な自分がいる。だから芝居を作っていても、全部わからなくてもいいや、という気持ちがある。わかりにくいというわけではなくてね」
「一人オシャレの瞬間が。高校を卒業してからは?」
「僕は、成績も悪くてね、推薦で大学に行けなかったの」
「串田さんは成蹊ですよね」
「はい」
「成蹊は下から上に勝手に上がって行くイメージがありますけど」
「だから、相当勉強やってなかったんだね」
「演劇と山」
「それに僕は、何度も下の学年に落ちそうになってたんだ。でも年子の弟がいたから、落ちたら一緒になってしまう。それだけは嫌だった。書道部の奴なんか、『ずっと字を書いてたら落ちたんで、四年います!』とか言ってたけど」
「串田さんは、絶対落ちられない」
「そう。でね、秋の終わりに『大学には行けないよ』と言われて、そこから必死に勉強するんです。しかも、冬にやろうとしていた芝居が、流感がはやっちゃってできなくなったんです。『終電車脱線す』という椎名麟三の作品で、電車が脱線して帰れなくなった人たちのエゴが出たりする話で、紙に電車を描いて、バリバリ破いてそこから転げ落ちるとかアイデアも出してたんだ」
「でも、それが中止になって、勉強を」
「そう、そこで受験勉強をするんですけど、二月の早稲田は落ちて、一カ月後、日芸を受けて入ったんだけど、その頃の日芸は何もなくて、一年でやめて、俳優座に入ったんです。そこでいろんな人と知り合って、いろいろ作りたいと思い始めた。そこで自分たちで劇団を作ろうと、六本木の建設中だった地下鉄の駅で話したんだ」
「それで自由劇場が?」
「でもね、まだ自分たちは力が足りない、次の人たちが卒業したら始めようと。そこで、僕は、その間に文学座に入った」
「そうなんですか」
「やめないですよね、って言われたんだけど」
「そうか、分裂騒動とかあったから」
「そうなんだ、でも一年でくらいでやめてしまって。文学座のみんなには可愛がってもらったし、良い思い出なんだけど」
「やっぱり、自分たちではじめると」
「そう。そこで自由劇場を作るんだ」
串田さんは、「ニオイというのは理屈がない。理屈があるのは、説得しなくちゃならない理由があるからなんだ。そして理屈が揃うと争い、戦争になったりする。だったら理屈がない方が正しいように思える。とにかく、自分を一番動かすものは、理由がないんだ」と最後に話してくれました。
わたしはこの言葉を聞いて、十五年前に観た、串田さんの「ゴドーを待ちながら」を思い出しました。
そして、串田さんの話してくれた牟礼の人たちのこと思うのでした。あの人たちも、理屈も理由もなく、そこに存在していたのでしょう。是非とも今度、もっと牟礼の人たちの話を聞かせてください。
串田和美 1942年八月六日生まれ、演出家 俳優。父は哲学者串田孫一、祖父は三菱銀行初代会長の串田万蔵。劇団文学座を経て1966年吉田日出子らとともに自由劇場結成。以降コクーン歌舞伎、平成中村座で中村勘三郎と数々の名舞台を演出、2003年まつもと市民芸術館館長・芸術監督に就任、現在に至る
戌井昭人 1971年東京生まれ 作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』