花が近くにあると人は笑顔になるのだなと思った。
大谷さんの作品は、飛行機の機内誌で何度か拝見したことがありました。各地に行った大谷さんが、その土地の花を使ってレイ(花の輪)を作り、そこに住んでいる人に作ったレイをかけてもらい、写真におさめるのです。ちなみに写真担当は浅田政志さんです。とにかく、写真に写った人々は、みんな笑顔で、こっちも幸せになってしまうのでした。
インタビュー当日、レイニーデイに現れた大谷さんの笑顔も素晴らしかった。その笑顔は、すぐに距離を縮めてくれました。
「花を楽しむっていうのは、きれいに飾って遠くから眺めるよりも、ぐっと近づいて香りをかいだり、さわってみたり、からだ全部を使うことだと思っています」と大谷さんは言っています。
なんだか花も人間も同じなのではないかと思えてきました。
インタビューの後、スイッチで働く女性、スイッチガールズの方々が、大谷さんの作ったレイを首にかけて。写真を撮ってもらっていました。
やはり大谷さんの花をかけられると、みんな笑顔になります。
このように、人を自然と笑顔にしてしまうものは、そのレイを作る大谷さん本人からも発せられているようで、とにかく、笑顔製造機のような大谷さんのあれや、これやを訊いてみました。
(戌井昭人・記)
「お生まれは?」
「神奈川県の横須賀です」
「どんな子供でしたか?」
「外で遊ぶのが嫌いで、もう股ずれをしちゃうほど、おデブちゃんだったんです。だからスポーツとかも嫌いで」
「現在の姿からは、想像できませんけど」
「いまは、僕の人生で一番運動をしてるので」
「何の運動をしてるんですか?」
「ジムに行ってます。ジムワークです」
「では、子供のころは、どんなことをしてたんですか?」
「粘土です」
「粘土?」
「油粘土が好きでした。紙粘土は高いし、作ったら終わりなので、特別な時にしか使えなかったんだけど」
「それをずっとこねてた」
「はい、僕の家は自営業で、お母さんはカーテンを縫ったりして、父は、そのカーテンを付けに行っていたんです」
「内装屋さん?」
「はい、他にも壁紙とかカーペットとか。だから父親は、あんまり家にいませんでした。そのかわり家には、パートさんがいて、母と一緒にカーテンを縫っていました。それで幼稚園から帰ってきたら、そこで粘土で遊んでいるか、カレンダーの裏に絵を描いてました。月が替わって、カレンダーをもらえるのが嬉しかった。でも妹は、そこに、ばーっと大きく絵を描いてたけど、僕は端から小さく描いてました。そういう暗い子供でした」
「粘土では何を作ってたんですか?」
「小さいお寿司をたくさん作って、それを並べて、一人で『いらっしゃい』とか言って、お客さんと板前の役をやってました」
想像するとおかしいけれど、やはり少し暗い子供だったのでしょうか。けれども、お寿司というのが、なんだか、センスが光るような気もします。
「小学校もそんな感じだったんですか?」
「絵を描くのが好きでした。それで授業中、先生に『ここ読みなさい』とか指されたら、耳が真っ赤になっちゃうような子供でした。そんなおデブちゃんでした」
「いつぐらいまで、太ってたんですか?」
「中学くらいまでかな、髪型は今と変わらないけれど」
「じゃあずっと家にこもっていた感じなのかな」
「でも、みんなと遊ぶ時は、山にカブトムシを捕りに行ったりもしてました」
家にこもってばかりではなかった大谷さん、当時、なにか印象的な出来事はなかったのか訊いてみると結構衝撃的な事件が。
「地元で羽振りのいい整形外科の娘さんと同じクラスになったんです。なんで言い合いになったのか忘れちゃったんですけど、その子に、『悔しかったらオチンチン出してみなさいよ!』って言われて、出したんです。そうしたら先生に言いつけられて、今度は先生に『なんで、オチンチンなんて出すの』って怒られて、その子が出せって言ったから出したって答えたら、『あなたは、わたしが死ねって言ったら死ぬの?』って詰め寄られたりしたことがありました」
たぶん大谷さんは、とても素直な子供だったのでしょう。
小学校の頃は、給食と絵を描くのが楽しかったという大谷さん。
「学校で、友達と会ったり話したりするのは好きだったけど、遊ぶのは一人がよかったんです。地元のソフトボールのチームに入ったりもしたけど、ボールが取れないんですもん」
「油粘土ですか」
「いつも爪の中に粘土が入ってました」
「そのころは、粘土で何を作ってたんですか?」
「恐竜とか、あと栗饅頭を作りました」
「栗饅頭?」
「父親が交通事故で入院していた時、隣のベットの人が栗饅頭が好きだというので、その人に栗饅頭を作ってあげたんです。粘土にニスを塗ったりして」
「本物っぽく見せようと」
「はい、それで、そのおじさんにあげたら、食べそうになってました」
やはり子供の頃から手先が器用だったようです。でも、恥ずかしがり屋の大谷さん、小学校三年の時に、少し吹っ切れた出来事があったそうです。
「三年生の時に佐藤くんという友達がいて、彼が七夕の時に短冊に、『ビフテキが食べたい』って書いていたんです。で、それを見て、『ああ、こんなもんでいいんだ』と思ったら、いろいろ気持ちが楽になったんです」
「それで気持ちが開いて」
「そうもじもじしなくなった気がします」
少し生き易くなった小学生の大谷さん。中学時代はどんな感じだったのでしょう。
「ブラスバンド部に入っていました」
「どうしてブラスバンド部を選んだんですか?」
「母親の希望だったのか、やらせてみたいと思っていたみたいで。あと近所の人がテナーサックスをやめて、楽器はあるから、それを使えばいいって」
「部活は真面目にやってたんですか?」
「あまり真面目ではなかったな。練習はそんな好きじゃなかった。でも、まあ普通にやってました」
「勉強の方は?」
「中学二年くらいまではなんとかやってたんですけど、それから勉強しなくなって、受験前は、ヤバい、となって一生懸命やりましたけど、本当に勉強は嫌だったなぁ。僕は、勉強する前に、頭を掻いててフケが出たりすると、どこまで出るのかと、ずっと頭を掻いてるような感じでした」
わたしも同じような経験がありました。
「そのころの体格はどうだったんですか?」
「中学二年の頃好きな女の子ができて、このままではいけないと思って、ご飯のおかわりと、チューチューするアイスを食べるのをやめることにして」
「チューチューするアイスは、そんなに食べてたんですか?」
「あればあるだけ食べてたんじゃないかな」
「キリがない」
「はい」
「それで結果は?痩せました?」
「少しずつだけど」
「恋の方は?」
「手を繋いで学校から帰るくらい」
「おー、凄いですね」
「でもね、手を繋いだ時に、変な形で繋いでしまって、この形を変えたいと思いつつも、なにも言えなかったり。そのくらいです」
「高校時代は、どんな感じですか?」
「近所の新設二年目の高校に入学して、自転車で通ってました」
「部活は?」
「新設校だったので、ほとんど部活がなくて、当然ブラスバンドもありませんでした」
「困りましたね」
「どうすんの、って感じで、ぷらぷらしてたんですが、当時はバンドブームで、先輩たちがやっている同好会があったので、そこに行ったんですけど、サックスを持って行っても何の役にも立たなくて。そんなこんなで、楽器を買うために、ガソリンスタンドでアルバイトを始めます」
「なに石油ですか?」
「コスモ石油です」
「自分も、高校生の頃に、コスモ石油でアルバイトしてました」
「僕は高校時代、学校よりガソリンスタンドにいた方が多いんじゃないかってくらいアルバイトをしてました。そのガソリンスタンドは家と学校の途中にあったので、学校に行く途中、店長から『今日は人が少ないからやっていかない?』って呼び止められて、学校休んでアルバイトしてました」
良い環境なのか悪い環境なのか、でもお金が溜まりそうです。
「高校時代は、バイトを一生懸命やって、バンドの練習をしてました」
「バンドの練習するスタジオは、どこに?」
「横須賀です」
「ライブをやったり?」
「ライブは横浜でやってました。今はドンキホーテになってしまったけど」
「『バンドホテル』だ」
「そうです」
「楽器はなにを担当?」
「ベースです」
「どんな感じの音楽だったんですか」
「最初はコピーバンドだったけど、18歳くらいから、女の子が歌うバンドを始めて、オーディションに応募したりしていました。髪の毛を立ててもしょうがないから、真面目にやろうといって。髪の毛を立てても審査員の点数は上がらない、と」
「結果は?」
「端っこの賞をもらったりもしました。でも僕は20歳でやめたんです。それで残ったメンバーは、デビューしたんですよ」
「凄い」
「はい、僕も凄いなって思ったけど、1年で契約が切れて、解散しちゃいました」
「大谷さんはその頃なにをやっていたんですか?」
「ガソリンスタンドの正社員になっていたんです」
「えっ、アルバイトから」
「はい。ミュージシャンになりたかったのはあったけど、まあ、真面目にやっていこうと。それでガソリンスタンドに就職です」
「じゃあ、整備士の免許も取得して?」
「はい。23歳の頃、新しいガソリンスタンドができるので、そこの店長になるってことになったんです。そのためには、整備士の資格を持ってなくてはいけないということで、研修に通わせてもらって」
「それで店長に?」
「なりました。でもオープンして3カ月で辞めてしまったんです。だから、それまでは羽振りが良かったんですけど、極貧の生活になっていきます。公共料金を払ってなくて、電気も止まって」
「辞めるきっかけはなんだったんですか?」
「ガソリンスタンドで働いてた頃、満タンにするとハンコを押すというのがあって」
「ポイントカードみたいなものだ」
「はい。それで、ハンコがたまると、ティッシュとか食パンを配ってたんです。そうしたら、ちょっと乗っただけで、ガソリンを満タンに入れにくる人がいて、それも夫婦で交互で来るんです。でも、そんな風にハンコをもらうために来る人とかは、なんか嫌だなと思って、ティッシュやパンじゃなくて、花をプレゼントしようと思ったんです」
「なるほど」
「で、いつも花屋さんにオーダーしにいってたんですけど、その花屋では、おじさんがタバコをくわえながら、ほいほいほいと花束を作って渡すと、お客さんが『ありがとうございます』と喜んでいるんです。それで『はい四千円』と。お金をもらって、『ありがとう』と言われて、自分が好きなように花束を作っていて、これは凄いと思ったんです。さらに、その花束を誰かにプレゼントしたら、貰った人が喜んで、さらに、それを持って帰ると家の人が喜ぶ、その喜ぶのを見ている方も嬉しい。とにかく、これは凄いぞと思って、ガソリンなんて入れている場合ではないと」
「でも店長ですよね、簡単には辞められない」
「そうなんです。だから最初は、誰か友達に花屋をやらせて、そこを手伝おうかと思ったんです。でも僕らの世代で、横須賀で、その当時だと、みんなパチンコやったりしていて、誰も花屋なんてやってくれない。それで、『すいません、花屋やりたいから辞めさせてください』と」
「すんなり辞められたの?」
「いえ『お前に幾らかかってると思ってるんだ』と言われました」
「研修とか行ってるし、資格も取らせて貰ってるし」
「そうなんです。だから、退職金もいらないのでで辞めますと」
「幾つのときですか」
「23歳くらいです」
「それで花屋に?」
「いえ、辞めた次の日も『それで花屋ってどうやってなるんだろう』といった状態でした。で、みるみるお金が無くなっていきまして、このままじゃヤバい、家賃も払えないと。そこで、近所のお弁当屋で働くようになります」
「花屋の夢を持ったまま、お弁当屋さんで」
「はい、とにかくお金が無いので、いまどうにかしなくてはと。それでお弁当屋の仕事を夕方までやって、その後は夜中の12時までホテルの掃除のバイトをしていました」
まだ花の仕事をしていなかったけれど、当時の大谷さんは、花についてどのようなことを考えていたのでしょうか?
「花は粘土だと思ってました。いろいろあるものを組み合わせれば大丈夫だと思っていたんです。いま考えるとちゃんちゃらおかしいんですけどね」
「お弁当屋さんはどのくらい働いていたんですか?」
「店長に、『大谷くん、新しいお店を出そうと思うんだけど、店長どうかね』と言われて」
「スタンドの頃のようですね」
「それで、これはまずいと思って」
「でも大谷さんは、いい働き手だったんですね」
「汚いメニューを書き換えたり、いろいろやってたんですよ。それで、人が喜ぶのが嬉しかったので」
人が喜ぶ、そして笑顔になる。どんな仕事をしていても、これが大谷さんの原点かもしれません。