「お弁当屋さんを辞めた後は?」
「お客さんで、ガソリンスタンドにも来ていて、お弁当屋さんにも来てた、運送会社の人のところで働きます。そこは稼ぎも良かった。軽トラックに荷物を積んで配達するんです。でも僕は、その頃スキンヘッドで、当時はオウム真理教の事件もあったので、ドアを開けてくれない人もいました」
「ドアの前に、箱を持ったスキンヘッドが」
「そうなんです」
「ちょっと怖いですね」
「でも、その会社は、社長が色々なことに手を出して、最終的には、給料がもらえなくなって辞めます」
「その後は?」
「そこでやっとお花屋です。花を買いに行っていたお花屋さんが、うちにおいでと言ってくれて、そこで半年働きます。で、いろいろな花屋を見てまわって、『僕は花屋になりたいんです』と言っていました。3年間修行して花屋になるとかではなく、キャラ先行でやっていけるのではないかと思っていたんです。そこでお金を貯めるために、求人広告で一番高いバイトを探して、高速道路を清掃する会社で働き始めます」
「どのくらい働いたんですか?」
「1年くらいです。毎月のように救急車で運ばれる人がいるような劣悪な環境の仕事でした。宇宙服みたいな服を着せられて、鉄の粉が出るホースを持って、それを吹き付けて、サビを落とすんです。その後、鉛をスプレーするんです。この時マスクをしていても、鉛が詰まって息苦しくなるので、最後は、マスクを取っちゃうんですけど、体に良くない。あとは、歯車に指を挟まれた人とか、鉄の粉が顔に入った人とかいて、それで、そろそろ僕の順番が来るんじゃないかと」
「救急車が」
「はい、で、そろそろ辞めようかと。百万円ちょっと貯めたので、物件を探して、26歳の時に店を開きます」
「場所は?」
「横須賀です。それで、月10万円のところを借りたんですけど、保証金というものを知らなくて、全部払ったら3万円しか残らなかった。でも、初日に、12,000円だけ花を仕入れに行ったんです」
「いよいよ開業ですね」
「地元に、おばあちゃんがやっている小さな花屋があって、そのおばあちゃんに、僕が想像する花屋のことを語ってたんです。看板はこうだとかとか、こういう内装だとか、でも、そんなこと全然できてないのに、お店は借りちゃった。そうしたら、おばあちゃんがバケツを五個くれたんです。『水とバケツがあればできるから』って」
「なるほど」
「でも僕としては、こんなバケツ嫌だなと思いつつ、とにかく店に並べたんです」
「結果は?」
「3,000円しか売れませんでした。看板も置いてなかったので、『ここ何屋?』って言われて、ダンボールに花屋って書いて、拾ってきた椅子を置いて」
「なんとか形にした」
「でも、9,000円赤字で、今日開店したけど、明日閉店かと思ったりしてました。それでも、とにかく椅子に座って、眠くなってしまったので花の入っていた箱の中で寝ていたら、お客さんが来たりして、そこから出て、まるで棺桶から出るみたいに」
「仕事の方はどうなりました?」
「雑誌で母の日特集の記事があって、それを切り抜いて、さも自分が出ているみたいに店に貼って、『母の日の注文承ります』と書いたら、仕事がきて、前金で貰って、なんとか1回目の家賃は払えました。でも、最初の1年は車で寝ていました」
「そうなんですか。お客さんは?」
「夜中の12時までやっていたんですが、そうすると風呂屋帰りのおじいちゃんが寄ってくれたり、酔っ払ったおじいちゃんがやって来たり。でもなんとか1年経って、次は、普通の一軒家を借りて、ドアを開けて入らないと何屋さんかわからないような場所にしました。それからは、自分がやりたいことだけをやろうと、ちょっと生意気になって、でも、だんだん客が来なくなって、そこは二年で止めます。それから僕は、アーティストになりたいんだと思って、アーティストは山の中に暮らして、そこで草花を積み、創作をするものだと、勝手に思って」
なんだか単純でありますが、この単純さと、すぐに動くというのが大谷さんの力でもあり、魅力であるように思います。
「それでどこに住むんですか」
「あんま山でもないけど、葉山に引っ越しました。そこでレッスンをしたり、お花の雑誌の仕事をしたり、化粧品の会報誌でお花をやったり、ヨーロッパのデザイナーが日本にくる時のお花の手伝いとかをしていました」
「じゃあ、売るより、作る方になったんですね」
「そうなんです」
「だんだん形になってきた」
「で、『湘南スタイル』とかが取材に来たんですけど、なんか錯覚してしまっていました。スカスカなんですよ。でも、どんどんやりたいことを突き進めていったら、またお金がなくなってきちゃって。その頃、葉山の奥様方が開いているサロンがあって、そこに年に何回か教えに行っていたんですけど、そこの方に、『あなた良いものを持っているけど、遊ばないから誰にも知られないのよ』って言われたんです。『うちの子供なんて、夜遊びで人脈作ってるから、飲みに行きなさい』って。でも、僕お酒飲めないんですって答えたら、『じゃあ、カフェに行けばいいじゃない』って言われて」
「そして外へ」
「でもその頃、家から出るのが嫌いだったんです。だから、カフェってどういう風に楽しむのかわからなくて、カフェの作法が」
「さてどうしましょう」
「それで、地元にハワイアンカフェがあったので、そこに行ってみたんです。ハワイなら自分も好きだから、いいかと思って、さらに、その日はお店がごった返していて、なんとか紛れ込むことができました」
「どうでしたか?」
「そこが楽しくて、通い始めるようになって、『お花やってるんです』と言ったら『ハワイにもあるんだよ』『花をつけて踊るんだよ』と教えてもらって」
ここで、大谷さんの現在の活動に近づいてきます。
「『ここでもみんな花をつけて、フラを踊ってるの?』って聞いたら、作り方がわからないからプラスチックの花をつけてるということでした」
「そうだったんですね」
「フラワーアレンジメントの仕事って、こういうものはどうですかと提案するのが仕事だけど、雑誌とかで紹介されているのは、豪華な花に、豪華な器だったりで、実際には、そういうことをやっている人は少ない。それよりもお花を楽しむ人を増やしたいと思ったんです」
「なるほど」
「でも、お金もないから、そのカフェで働きながら、レイを勉強しようと思ったんですけど、最初は、どうやって習ったらいいのわからず、教室もないから、それで洋書なんだけど本を買って、それを見ながら、見よう見まねで作ったりしていました。あとは、お客さんに見せて、『ハワイで見たのはこんなのだった?』って意見を聞いたりしていました。それで、最初は、フラを踊ってる人たちに配ったりしていたけど、それからハワイに行ったんです。そこで先生に会って、正統派のハワイ仕込みのレイを学んだら、一目置かれるぞなんて、いやらしい考えもあったんです」
「行ってみてどうでした?」
「ハワイの先生に、『日本の花を使いなさい』と言われたんです。そこにあるものを使うことに意味があると。でも、その場にあるものを使うなんて、その時代では、ちゃんちゃらおかしいことだったんです。日本でその場にある花を使っても、『これはレイじゃないよね』とかいう空気になって」
「そうなんですね」
「それでも、それをやらなくちゃと思いました。日本に来ているハワイの人たちは、それでいいと言ってくれるんですけど、日本の人たちは考えが固くて」
「でも作り続けた」
「はい。そのうちに、自分の中で軌道に乗って、身になってきたなと思って、それを先生に見せてあげたいと」
「何という先生なんですか?」
「マリー・マクドナルドさんです。今年91歳で」
「教わろうと思ったきっかけは」
「彼女の本も持っていたんですが、『クウネル』という雑誌で、彼女の作ったレイが紹介されていて、それには紫陽花に南天が入ってたんですよ。そんなの普通考えられないことだったんですけど、もしかしたら、この人に会ったら、何かヒントがあるかもと思ったんです」
「すぐに会えたんですか」
「最初は、全く繋がらなくて、彼女は学者で気難しいから受け入れないって、言われたりしていたんです。それで、農水省の人が、市場の輸出入の商談みたいなのでハワイに行った時、自腹でついていったんです。で、せっかくハワイに来たのに、毎日ミーティングで可哀想だからと、『どこか行きたいところある?』って訊かれた時に、『この人に会いたい』って言って。本を持っていたから、それを見せて。そうしたら、向こうの偉い人が彼女を知っていて、すぐ連絡してあげると、それで心構えもなく会うことになって」
「凄い展開ですね。会ってみてどうでしたか?」
「彼女は、花を摘んで待っていてくれて、『何が知りたいの?』と言われて、『あなたが教えてくれることがあればなんでも知りたいです』と言ったら、『時間がないから早くやりましょう』と、このやり方、そのやり方、ってどんどんいろんな作り方を見せてくれました。残った花は持って帰って、それでまた作りなさいと」
「得たものは大きかった」
「神様みたいな人だと思っていたので、実感もなく、ふわふわしてました」
「その後も、葉山で活動を?」
「そうです。フラワーアレンジメントを教えたり、カフェで働いたり、それでハワイに行って、一週間くらい滞在して、彼女に教えてもらって帰ってくるというのを繰り返していました。それで五反田に教室を構えたんですけど、そこから葉山まで通ってたら、いつも車で眠くて、横浜に引っ越しました」
マリー・マクドナルドさんにレイを習った大谷さんですが、そこにはお金の介在が一切なかったそうです。そしてそれが、『笑顔の花飾り』という本を作ることにつながっていきます。
「日本の花を使って、こんな素晴らしい知識を与えてもらったけど、そこには、お金の介在が全くなかったので、どのくらい払えばいいのかと思ったんです。でも幾らか訊くのも失礼だし。とにかく、ここまでの感謝をどうしたらいいか教えてほしいと訊きました。そうしたら、『ここに訪ねて来ているだけでいい。レイを作れるようになって、みんなが喜んでくれなら、それでいい』と言われました。そうしたら、そんなことを考えた自分が陳腐に思えてきたんです。その時日本の花をひとつでも多く彼女に見せよう、その植物のあるところで写真に収めようと、それで、四十七都道府県を回ろうと思って始めたんです」
「どのくらいかかりましたか?」
「2年半で回りました」
「本は、先生に届けることはできたんですか?」
「はい」
「喜んでいましたか」
「はい。でも、おばあちゃんだから、感情の起伏が穏やかで、娘さんの方がボロボロ泣いてました。それに、彼女は学者なので、娘さんが『この花はあれだね』とか言うと、『そんなのわかってるよ』と言っていました」
本を作る時大谷さんは、マリー・マクドナルドさんに、英語のセンテンスと学名を入れなさいと言われていて、それを守りました。
そして、マリー・マクドナルドさんに本を見せると、「この先、農家が無くなってしまったとしても、この本を見れば、その子供達が、自分の土地を知ることができるね。よくやった」と言われたそうです。
インタビューの後、わたしは、大谷さんからレイを頂きました。首にかけてみると、嬉しくて、なんだかわけもわからず、ニコニコしてしまいました。凄いなレイの力は、と思った次第です。
帰り際。大谷さんに「花は枯れるものだから」と言われたものの、捨てるのがもったいなくて、いまだ、わたしの部屋にぶら下がっています。
大谷幸生 1969年神奈川県生まれ。レイ作りの巨匠マリー・マクドナルドに師事し、日本の土地に育つ花とハワイに伝わる様々な手法を巧みに駆使したオリジナルのレイを編むレイメイカーとして、 また雑誌や広告の花などを手がけるフラワーアーティストとして活動中
戌井昭人 1971年東京生まれ 作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』