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「他には、どんなことをやってたんですか?」
「小学校生の頃から高校生までずっとやってたのは、クラス全員の家に行って夕飯を食べるということです」
「なんですかそれ?」
「友達の家というのは文化が違って、それを見るのが面白かったんです。プールがあるものすごい金持ちの家があったり、働かないお父さんがいる家があったり」
「凄い格差ですね」
「働かないお父さんは、ずっとタバコ吸ってて、畳の上の同じ場所で揉み消してるんですよ。だからソコが穴になってて。友達の妹は、その穴に向かってゴルフをやってたんです。だから社会を知るのは、友達の家に行くのが一番だと。それで高校生の頃も、友達の家に行ってました。カードゲームばっかやってる奴とか、プルトップばかり集めてる奴とか、武器ばっか作っている奴とか」
「その人たちの写真を撮ったりはしてないの?」
「写真は撮ってないけど、友達の0点のテストとか、手紙とか貰ってましたね」
「友達のテストまで」
「0点なんて、そうそう取れるもんじゃない。でもひとまとめで言うと、結局それは思い出なんですよ。友達の描いた落書きとかも、いまだに持ってます」
「そのような活動をしていた高校時代ですが、将来のことは考えてたの?」
「兄が美大に行っていたんです。それを見ていたら自由でいいな、好きなことをしてられるんだなと。それで自分もアートだ、美大だと。実家が写真館だから写真学科かな、とか思いながら。予備校に通って、一人暮らしを始めるんです。そうしたら、そこにスーパー自由があって」
「予備校はどこにあったんですか?」
「立川の予備校です。それで、むちゃくちゃ面白い奴がいたり、さらに一人暮らしだから、スーパー自由で、まったく勉強しないで、自由を楽しみはじめたんです。そこで自分自身と向き合うことになって。それまでは流れに振りまわされてばかりだったけど、そこで自分の作品を作ったんです」
「どんな作品を」
「サザン、さだまさし、自分、という作品です。さだまさしのマネをして写真館で写真を撮って、さらに桑田佳祐のマネをする。つまり僕のアイデンティィはここですよということを作品に。そんなモノを作って、とりあえず清算しようと思ったんですね。そんなこんなで、全然勉強せずに予備校に3年間いたんです」
「3年間予備校に」
「そう。あまりにも居心地が良かったから3年もいたけど、結局、芸大に受からず。それで、専門学校に行くんです。創形美術学校に」
「でも、学校に入る前からもう活動していたんですよね」
「そうなんですよ。1999年に浪人生活をやめたんですけど、そのときアニメ、文章、建築デザイン、映画といった、自分とは違うことをやってる仲間を集めて、グループで、アトリエを作ったんです。共同ギャラリーですね」
「場所は、どこに?」
「国立です。後で考えると、オルタナティブスペースなんですけど。当時は、多目的ホールみたいな感じでした。トークする場がほしくて、毎日集まって、『今週の無駄遣い』とかをテーマに話し合ってました」
「今週の無駄遣いとは?」
「一人一人が、自分の無駄遣いを話すんです。そうすると、俺にとって無駄なものが、その人には無駄じゃないとか、そういうのが出てくる。それで、だんだん情報が増えて」
「池田さんは、人が興味あるものに興味があったりするんですね」
「そうなんです。友達の好きなものを知っていくのが面白かった。それで、展覧会をやったり、フリーペーパーを作ったりしてました。で、そのようなグループでできるチームプレイは、サザンオールスターズなんです。一方、個人でやる人生の教科書は、さだまさしなんですね。その二つが同時進行で進んでいくんです」
「そんな感じで、どのように写真へつながっていくのでしょうか?」
「造形屋さんでアルバイトをしていて、FRP(繊維強化プラスチック)の作品をやってたんですね。粘土が得意だったから。気がついたら、すぐにチーフになってたりして、いろいろなアーティストから受注を受けて作ってたんです。同世代の友人はアーティストの下についてやってたりしてて大変そうだったけど、ぼくは受注されている側だったんですね」
「そうか、ちょっと違いますね」
「それで、いろいろなアーティストを手伝っていたら格好いいなと思って。当時は絵描きになりたかったんです。一方で、写真も撮ってたんですよ、アーティストの作品とかポートレイトを。で、写真館の息子で、子供の頃から写真はやってるので、『写真上手いね』って言われても、『当たり前だよ』と思ってたんだけど。とにかく、いろいろなアーティストと交流するようになったんです」
「その写真を撮っていた」
「みんな、僕が写真ができると知っているので。そのときに、いろいろな人と会って、おしゃべりして、だんだん吸収していって。それらをカテゴリーに分けていくことができたんです」
「整理ができるようになった」
「そうなんです。20代前半までは情報収集ばかりだったんですけど。それで写真のことは、『近すぎて気づかないんだ』とか人に言われたり、褒めてもらったりして」
ここで写真家への決意が固まっていくのでしょうか?
「人間には短所と長所があって、ぼくは長所を伸ばそうと思ったんです」
「子供の頃から、写真は近い存在ですもんね」
「はい。一方で、通信簿によると僕の短所は、落ち着きがない、うるさい、ってところなんですけど、その短所を職業に活かすなら、これも写真家だと思ったんです。落ち着きがなく、うるさい。だからこれも伸ばしていこうと。それで、友達に『俺のいいところ教えて』って訊いてまわるんです。そこで自分を構築して、周りからこう思われてるんだなとか、いろいろ考えて、やっぱり自分には写真が向いているんだと思ったんですね」
「なるほど」
「今まで写真というと、女性のグラビアだったり、あとは写真をちょっと齧った人が撮るような、ちょっと暗い感じで馬とかを撮ったりする文学的な写真が流行っていたんだけど、自分はそういうものが嫌いで、とにかく周りにある環境で写真を撮っていこうと。それで、もっとポップな写真を撮ろうと思ったんです。そうしたら『美術手帖』から話が来て、これから自分の好きなことで仕事ができるぞ、人に愛されるような仕事ができるぞと。とにかく環境は恵まれていたから、それを受け入れようと」
「そこからコンスタントに仕事が来たんですか?」
「デザイナーになった友達にCDジャケットの写真を撮ってくれと頼まれたり。あと3年間予備校にいたから、周りの奴がもう仕事を始めていて、そこから仕事が来たり」
「じゃあ写真家でやっていく決意が固まった」
「『俺は今日から写真家だ』という日があったんです。当時は広告ブームで、デザインが面白い時期でもあって。自分が写真に憧れたのはアートの方だったから、あまり興味はなかったんですけど、でもアートとデザインとを行き来しながらやっていこうと思って、それでレコード会社のビクターエンタテインメントに行って、『今日から僕はカメラマンになりましたので、サザンのジャケットをやらせてほしいんです』と売り込みに行ったんです」
「いきなり、サザンで」
「はい。それで、『ポートフォリオを見てください』と。それが初めての売り込みで、売り込みをしたのはそれだけでしたけど」
「で、初めての売り込みは、どうなりましたか」
「ポートフォリオを見てくれた人が『あなたの写真なら、もうちょっと女性を撮った方がいいですよ』とかアドバイスをくれたり、『なんだったら、このファイルはここに置いておくから』と言ってくれて。それでサザンじゃないけど、別の仕事をもらったりして」
「順調ですね」
「いえ。仕事はあったりなかったり。でもそんなに辛い感じではなかったな」
「じゃあアルバイトとかしてたんですか?」
「ジーンズメイトでバイトしていました。それで、僕は裾上げが上手いんですよ。裾上げチャンピオンって大会があって、優勝してましたね」
「凄いじゃないですか」
「当時、そういうことは、後で思い出として話せると思っていたんです。今こうやって話しているみたいに。そんな気持ちでアルバイトをしてました。あとは、恋人と自転車で2ケツして雨の学校に行ったりとか。そういうのも、いつか思い出になるぞと思ってやってたところもあるんです」
「人生が思い出づくり」
「そうです。思い出遊びです」
いまこうして写真家になった池田さんですが、写真館を営んでいるお父さんの思い出は、どんな感じなのでしょうか?
「お父さんは、ふざけたおじさんなんです。子供を笑わせるんです」
「写真館で」
「そうです。写真館で子供を撮るときとか、いつも『ニーコニッコニッコニコ』って、めちゃめちゃダミ声で言うんです」
池田さん、お父さんの『ニーコニッコニッコニコ』を真似してくれましたが、これは歌のようにもなっています。
「それで、アンパンマンをカメラに乗せてわざと落としたり、風船を飛ばしたりして、それを拾いにいくときに、子供が笑うんです。その瞬間に撮るんです。あと靴が脱げて、笑わせるとかね。でも父親はその時カメラのところにいないから、母親がシャッターを押したりして」
「ニーコニッコニッコニコ」
「そうです。僕にとって、『ニーコニッコニッコニコ』は長い間呪いのようになっていました。でもね、僕も、父の靴が脱げるみたいに、帽子を落としたりできるようになって、その帽子が落ちるときに、シャッターを押すんですね。だから、父は、ただふざけてるだけだと思っていたんですけど、これは技術なんだなと。それを受け継いでいたんですね」
ふざけているみたいだけれど、変化球で、どこか確信をついてくる池田さん。
今後も、いろいろと観察、吸収をして、楽しめる作品を作り、そして楽しい池田さん自身でいてください。
なんてったって、「みんなが楽しんでいるのが楽しい」という池田さん自身が相当楽しいのです。
池田さんがいれば、まわりの人たちが、「ニーコニッコニッコニコ」になっていくはずです。そして世の中が「ニーコニッコニッコニコ」になっていけば素晴らしいと思うのでした。
池田晶紀 写真家。ゆかい代表、水草プロレイアウター、シェアリングネイチャー指導員、かみふらの親善大使、FSC(フィンランドサウナクラブ)会員、サウナ・スパ健康アドバイザー。5月7日(月)まで池田晶紀展『模様』がアーツ千代田 3331 1F COPAINS de 3331/CHAMP DIVIN 3331内で開催中
戌井昭人 1971年東京生まれ 作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』