高田聖子さんは、それまでテレビや映像などで見ていたことがありました。さらに「劇団☆新感線」所属ということや、粋な関西弁で、とてもパワフルな印象を持っていました。
しかし、ご本人にお会いして話をすると、イメージとは打って変わって、おっとりした雰囲気で、ゆっくりと丁寧に、お話をする方でした。わたしは、なんだか、肩すかしを食らったような気がしましたが、勝手なイメージっていけません、と思いました。ご出身を聞けば、奈良県だそうで、そうか、知り合いで奈良県の人を思い浮かべると、大概、おっとりしているような気もするのです。
でも、その奥に、なんというか、ワイルドさやパワフルさが見え隠れするところもあるような気がするのです。そして、話していると、なんと虫とりが好きだということでした。それも特にセミに特化しているらしい。なんだか、どんどん、謎になっていきますが、まずは、驚きの、生まれ、育った場所から訊いていきます。
(戌井昭人・記)
「お生まれは」
「奈良県、生駒郡、斑鳩(いかるが)町、法隆寺です」
「法隆寺?」
「はい。寺の娘っていうか、はい」
「法隆寺は、聖徳太子ですよね」
「ええ」
「お家も、法隆寺内にあるんですか」
「はい。境内にあります。馴染んだ感じの社宅みたいなのが、何軒かあって、そこに何人かのお坊さんの家族が住んでます」
「住所が法隆寺だったら、郵便も法隆寺だけで届きそうですが」
「でも法隆寺は、そこらへんの地名でもあるので、そこに山内(さんない)と書けば、届きます」
「じゃあ遊び場も法隆寺ですか?」
「境内でした。いまは、区切って入れないところがありますけど、昔は、なあなあだったんです」
もちろん、金堂や五重塔に住んでいるわけではないですが。法隆寺に住んでるというのは、やはり驚きです。国宝に囲まれての生活です。
「その頃は、どんなことして遊んでました」
「お年寄りが周りにいて育ったので、同い年の友達がなかなかできなくて、どう遊んだら良いのかわかりませんでした。だから給食室によく行ってました」
「給食室?」
「給食室では、おばあちゃんが1人で作っていたんです」
「おばあちゃんの方が、落ち着く感じだったんですね」
「はい。近所のあん摩さんのおばちゃんの所に遊びに行くとか、お土産屋さんのおばあちゃんの所に行くとか。もともとはおばあちゃん子だったんです」
「おばあちゃんも一緒に住んでいたんですか」
「そうです、家族全員で住んでました」
いろいろなおばあちゃんと友達になっていた高田さんですが、その後、同年代の友達はできたのでしょうか?
「幼稚園の年長くらいになって、じわじわと友達ができてきました」
「同年代の子とは、どんなことをして遊んでましたか?」
「かくれんぼしたり、でも隠れる所だらけだったんです。だから、ずっと隠れてて、見つけてもらえず。熱を出したりしてました」
「遊び場が法隆寺だったんですね」
「珍しいことではなかったんです。奈良県自体、お寺の子どもは沢山いるんです。でも中学高校になっていくにつれて、珍しいというのを実感しました」
それも普通のお寺ではなく法隆寺ですから。
「お寺のおつとめとは、してたんですか」
「そんなにやってないな」
「場所は特別だけど、生活としては、お父さんが法隆寺で働いているといった感じだったんですか」
「そうです。生活は普通でした。クリスマスもあったし。うちは先祖代々というわけではなく、父が小坊主で入ったので、そんなにこだわりはなかった」
逆にこだわりがあったら大変なことになりそうです。
「小学校も近所の?」
「はい」
「小学校時代は、なにをして遊んでましたか?」
「草を抜いたり、虫をとったりが多かったです。虫とりはいまでもやってるんです」
「へ?」
「年に1回は、セミを素手でとるということを、自分に課してるんです」
「どこでとるんですか」
「場所はどこでも。東京でもとります。東京のセミはとりやすいんです。油断してるから、誰もとらないと思ってるんです。去年は長野でとりました」
「野生の感を失わないようにとか」
「そうです。この感覚を失ったら終わりのような気がして」
「それは、小学生のころからですか」
「はい、なんでも手でとるのが好きでした。ザリガニとか、どじょうとか、魚とか」
「手づかみで」
「はい、手づかみが好きです。って、なんのこっちゃいって感じですが」
「育った付近なら、他にもいろいろ生き物がいますよね、ヘビとか」
「ヘビはダメです。子どものころ、木の枝と間違えて踏んずけて、両端がビャッて上がって、それから怖くて、恐ろしい」
「カエルは?」
「カエルは、好きでとってました」
もっぱら外で遊んでた高田さんですが、現在の活動につながるようなことはやっていたのでしょうか。
「ゴレンジャーごっこくらいですかね」
「女の子だからモモレンジャーですか?」
「いや、キレンジャーでした。別に太っていたわけでもないんですが」
「カレーが大好きだったとか?」
「カレーも別に、なんででしょうね。そういう役割でした」
「じゃあ子どもの頃はとにかく遊び倒していた感じですね」
「でも、わたしは、小学校4年生のときに病気をして、半年くらい学校を休んでたんです。いまは、すぐに治るんですけど、溶連菌という病気になって、ちょっと動くと、すぐに熱が出たりして。だから休んでるとき学校では、高田が死んだという噂が流れて、久々に行ったら、みんんが『うわー』って驚いて、『生きてた』って」
「じゃあ、そのときにじっくり本を読んだり」
「ないですね。教育テレビばっかり観てたけど。はい」
病気で学校を休んでいる子どもは、本などをじっくり読んで、哲学的になっていくといった、わたしのステレオタイプな考えでした。すいません。
「それにしても、虫ばかりとってた子が動いちゃいけないって大変でしたね」
「学校に戻ってからも、しばらく体育とかできなくて」
「治りましたという診断は、どういった感じで出るんですか」
「お医者さんが学校に行っていいと。なんか曖昧なんですけど。退院してからも、毎週血液検査とかありました」
「5、6年生のときも?」
「いえ4年生のときだけです。後はとくになにもなくて。なんだった? あの数カ月はって」
それでも、相当な忍耐が必要だったのかもしれません。
「中学は?」
「近所の斑鳩中学校というところへ通いました」
「部活は?」
「小学校5、6年生のときに、友達が『ガラスの仮面』の漫画を貸してくれたんです。それで、演劇部へ」
「いよいよ演劇ですね」
「でも、そんなに活動していたわけではなくて。それよりも。小学生の頃、吉本新喜劇が好きだったので、それの延長みたいな気分でした」
「発表会みたいなものは」
「あったんですけど、あまり記憶がなくて。民話みたいなものをやったのかな」
「もともと人前に出るのとか、お芝居は好きだったんですか?」
「わたしは、角川映画が好きで、『セーラー服と機関銃』とか、なんとなく、あんな風になれたらなとは思っていました。はじめて親なしで行った映画が『セーラー服と機関銃』でした。エッチなシーンとかあって、どきどきしました。小学生の妹にこれを見せていいのかと思ったりして」
「虫は?」
「とってました」
演劇をはじめた高田さんですが、理由は他にもあったそうです。
「お寺(家)を早く出たかったんです、子どもの頃はあまり思っていなかったんですけど。だったら、俳優とかになれば早く出れるかと」
「全く違うことをすればいい」
「なにか手段はないかと考えてました」
「高校は?」
「大阪の四天王寺学園という私学へ通います」
「そこでも、演劇を?」
「演劇部に入ったんですけど。そこは秋野暢子さんが出身で、演劇部でスカウトされたという伝説があって。もしかしたらというミーハーな気分で入ったんですが、えらい厳しい部活でした。わたしは、だいたいグズグズしてて、集団行動が得意ではなかったんです。でも演劇部は、決まりごとも多くて、嫌だなと、それで、なんかおかしいと思って、ちょっと意見したら、クビになりました」
「クビ、どのくらいでクビになったんですか?」
「半年もいなかったです」
「ずいぶん早い時期に意見をしちゃったんですね」
「はい。あまりにも理不尽な、と思いましたが。でも、そういうものなんでしょうね、クラブ活動って」
「そして帰宅部に?」
「そうです」
「じゃあ、町をうろついたり」
「いや、厳しい学校だったので、どこか寄るにも、立ち寄り許可書が必要で、だから、すぐ家に帰ってました」
「じゃあ、なにをしてたんでしょうか?」
「暇だったから本屋に行ったりしてました。そしてサブカルチャーの方へ」
「『宝島』とか?」
「あたしは、『びっくりハウス』が好きでした。そういうのを読んで、『へへへ』と笑ってました」
「演劇は、簡単に諦めることはできたんでしょうか」
「スパンと首を切られたので。それで、とにかく、高校生活に馴染めないまま過ごしてました。でも何かしたいと、そうしたら新聞広告で、NHKの放送劇団養成所というのを見つけて、授業料も安く、お小遣いでも通えると思って、応募したんです。それが高3の時でした」
「高校3年生だと、ギリギリの時期ですよね」
「そうですね」
「進路はそっちの方へと決意してたんですか」
「やりたい気持ちはあるんですが、自信は全然ないという。でも諦めきれず」
「放送劇団養成所では、どんなことをやっていたんですか?」
「基礎をやりました。広く浅く、でしたけど、朗読したり。でも同年代ではなく、大人と何かやれるというのが楽しかった」
「カルチャーセンターみたいな感じ?」
「そう、そういう感じでした。それで、そこの先生に、大阪芸大というのがあるというのを教わったんです。それで見学に行きまして。そこからは、なんていうか、なし崩し的に、じわじわそっちの方へと」
「ご両親は、そっちの道へ進むことをどう思っていたんですか?」
「どうせ芽は出ないと思っていたから。それまでも、ちびちびオーディションなど送ってはいたんですが、ことごとくダメでした。だから、親には、『わかってるだろ?』って言われていて」
「諦めろと」
「はい。だから、『わかってる』と答えてました。でも、芽が出ないのはわかっているけど、大学の四年間だけ、好きなことをさせてほしい、そのあとは絶対就職するからと言いまして」
親を説得し、いよいよ大阪芸術大学へ入学します。
(本項はSWITCH Vol.35 No.9に収録されたものです)