「酒とつまみ」という大竹さんの作っている雑誌を手にしたのは、7年くらい前のことでした。とんでもなく面白くて、くまなく読んだのを覚えています。そして酒が飲みたくなるのでした。
それから、大竹さんの書いた本を読むようになりました。とくに『多摩川飲み下り』は名著で、大竹さんが多摩川を上流から下流に向かって歩きながら、酒を飲むというもので、こんな風にして生きてる人間がいるのだから、世の中は、まだまだ捨てたものじゃないと思ったのでした。そしてお酒が飲みたくなるのでした。
そんなこんなで、『多摩川飲み下り』が面白いと雑誌に書いたら、大竹さんがそれを読んでくれて、一緒にお酒を飲むことになりました。
いったい、どんな呑兵衛が来るのかと思ったら、実物の大竹さんは、物腰柔らかで、とても話しやすく、さらに見た目は、とても健康そうで、肌ツヤもとてもよろしいのです。わたしは、もっとグダグダな人がやってくるのかと思っていました。さらに、たんたんと酒を飲むその姿が、ものすごく格好良かったのです。
また、大竹さんが育った場所と、わたしの育った場所が、近所だったということもあり、なんだか、勝手に親近感もわいてきて、あーだこうだ、酒に対して、うんちくを言うわけでもなく、とにかく酒を愛しているその姿を眺めていると、これまた酒が飲みたくなるのでした。
酒とは切っても切れない大竹さんですが、いったい、どのようにして、現在の大竹さんが形成されていったのか、詰まっているのは酒ばかりではない、そんな部分をお訊きしたいと思いました。でも、やはり酒なのか?(戌井昭人・記)
「生まれた場所は?」
「武蔵境の駅前にある武蔵野赤十字病院で生まれて、三鷹の新川の団地で育ちました」
「どんな子供時代でしたか?」
「僕らのころは、団地がボコボコできて、お寺とか教会にも幼稚園はあったんですが、それでも足りなかった。そこで、私立の明星台幼稚園に通います。明星は、小田急のバスが特別に団地と幼稚園を行き来してたんです。団地から大量に子供が通ってました」
「どんな幼稚園児でしたか?」
「無着成恭さんの教えなのか、とにかく走りまわって、文字も習わず。それで毎日、井の頭公園の、いまジブリのあるあたりまで歩いて行って、そこで弁当を食べて、また歩いて園へ帰り、解散なんです。だから小学校入ってもたしか、文字読めなかった」
「小学校は明星学園へ?」
「いいえ、公立です。三鷹第一小学校。そのまま明星学園にあがれるのは、あのへんのボンだから」
「どんなことをして遊んでましたか?」
「団地近くの雑木林で遊んでました。あとは近くに仙川が流れてたんだけど、護岸工事がされてなくてね。遊んでたら、落ちて流れる子供とかいたな、それをみんなで助けて」
「大竹さんも流れた?」
「僕は、それを見て笑ってた」
「どんな小学生でしたか?」
「あの頃は、勉強しろとか言われることもなくて、元気に走り回ってるのが最優先でした。雪なんか降ったら、もう授業はなくて」
「休みになるんですか?」
「いや、2時間ぶっ続けで雪合戦しててくださいとか」
「やっぱ、都心とは少し離れてるからでしょうか」
「大人たちも、ちゃんと教育してやろうなんて考えてなかったんじゃないかな」
わたしも大竹さんの生まれた場所の近くで育ったのですが、そこは東京だけれども、明らかに都会の子供とは違った感じで育ったような気もします。
「大竹さんは、子供の頃から本が好きだったんでしょうか?」
「まわりには本を読む、そういう子供もいたんだろうけど、僕のまわりは、日が暮れるまで外で遊んで、飯食って、気づいたら寝ているような感じで、犬みたいな育ち方をしてました」
「とにかく遊ぶ」
「そうですね。雪が凄い降ったとき、生徒みんなでカマクラを作ったな、1年生から6年生まで、みんなで遊んでたんですね。で、先輩が雪の中に埋まって中の空洞を作ってくれて、網で焼いた餅食べさせてくれたり」
「年齢は関係なく遊んでた?」
「そうです。公団住宅は、日本全国から入植してきてた感じで、いずれ家を建てて出ていこうという人ばかりだったので、九州も、東北も、各地の出身者がいて、いま思い返すと、遊びの名前の呼び方とかも違ってた。とにかく、なんの縛りもなく、ただただ遊んでた。でもよく怪我してましたね」
「どんな怪我を?」
「公園で先輩にブチかましされて、頭を打って、気絶したことがあります」
「うわ、それは何歳ぐらいのとき?」
「幼稚園ですね。今から考えたら大問題ですよ。それで、兄貴たちに担ぎ込まれて、水ぶっかけられて、近所のお医者さんに見てもらったんだけど、『じきに元気になるだろう』って言われたな。そうだ、目が覚めたときゲロ吐いたらしんだけど、結構危ないですよね」
「危ないですよ」
「とにかく頭が血まみれというのは、子供の頃は、2回くらいあるんじゃないかな」
「遊びまわりすぎというか」
「そうなんだ。どこにでも行っちゃうし、無謀なことやって、それで、ぶつかれば血が出ますよね」
「まあ、そうですけど」
「でも昔の医者って、『我慢できるか?』って訊いてきて、『はい』って答えると、麻酔もせずに、ブスブス縫ってくるんです。それで『お前我慢強いな』と言われて、『うっす』とか言って、格好つけちゃってね」
「野蛮ですね」
「三鷹とかって、そういう土地だった。言葉も、ちょっとした多摩弁があって、江戸っ子とは全く違いますよ」
わたしの祖父も深大寺の近くの農家出身で、言葉が変でした。「コーヒー」は「コーシー」、「やっちまいな」というのは「やっぢまいな」、「いっぢまいな」といった感じで言葉に濁音が入って濁るのです。ちょっと汚い感じの訛りです。
「じゃあ大竹さんは、そのような野蛮な土地で遊びまわって、すくすくお育ちになった」
「まあ、基本そのままだったんですけど。僕が12歳で兄貴が15歳のときに、親父が出奔いたしまして、仕事で失敗したというのが直接の原因にはなっているんですけど」
「あれま」
「親父はそれまで、野球チームの監督とか、人を集めて麻雀やったり、祭りをやったり、酒盛りしたり、賑やかな人だったんで、地域では有名だったんですよ。それが急にいなくなったもんだから、みんな噂するわけですよ。『女ができた』とか『奥さんに男ができた』とか、『あそこは、兄ちゃんは真面目だけど、弟の聡(さとし)は悪ガキだから、コレから見ててごらん、おもいっきりグレるから』なんて言われてたんです」
「団地の村社会」
「そうです。それは、僕が中学に入ったときぐらいだったんですけど、みんながチラチラこっちを見て噂するんです、それが面倒臭くて」
「そうですよね」
「そこでね、そうなると男ですから、いかに体育祭で活躍できるかとか、勉強できるかというところで勝負になりますよね」
「はい」
「あとは部活をしっかりやって、そうするといじめの対象にはならない。でも僕は、もともとガキ大将だったので、悪くなるぞって言われていた他の子供たちとは付き合わないようにしたりして」
父が出奔したことにより、みんなの噂するような人間にはならないように、心がけていた大竹さん。子供ながらに大変だったのかもしれません。そこで、普段は、どのように生活していたのでしょうか?
「家では勉強もしてなかった。恥ずかしいけど、エロ本を見るか、ギターを弾くかでしたね。まあ、それで6時間は持ちました」
「エロ本、ギターで6時間。部活は?」
「野球をやってました」
「どこを守ってたんですか」
「セカンドでした」
「野球は真面目にやっていたんですか」
「やってましたね。僕は結構上手かったんですよ」
「じゃあ、野球、エロ本、ギターですね」
「そう、グローブとエロ本とギターがあれば、小学生のときのような友達がいなくたって知ったこっちゃないって感じでした」
「酒は」
「訊かれるだろうなと思ったけど、酒は、まだ飲んでない」
「酒はまだですね」
「はい。ごくごく普通の中学生でした」
「遊び場は近所」
「そうですね。都心に行っても落ち着かない。当時好きだった女の子と、渋谷に映画を観に行ったんですけど、落ち着かないしお腹は痛くなる。だから映画を観終わったら、真っ直ぐ吉祥寺に戻って、お茶を飲んだな」
大竹さん、やはり武蔵野育ちなのか、都心に出て人が多いと目がまわってしまうそうです。