スイッチという雑誌を意識したきっかけは、操上和美さんが撮影したロバート・フランクの特集号だったような気がするのだけれど、古今亭志ん朝の号も操上さんの撮影だから、いったいどこでスイッチを知ったのか、実は曖昧だ。
でもあの頃のスイッチには好きな表紙の号がたくさんあって、それはだいたい操上さんの撮影だった。
とくにロバート・フランクの号の表紙は大好きで、部屋に立てかけたりしていた。
ハシゴの下でこちらを見据えるロバート・フランクに、「お前、ちゃんとやってるのか?」と問われているような気がして気持ちがシャキンとするのだった。
そして、このような写真を撮ったのはどんな人なのだろうかと思った。
男と男の一対一の真剣さ、でもそこに漂っている優しさが、写真を撮られたロバート・フランクにも、撮った側の操上和美さんにもあるような気がした。
いまだから告白するのですが、実はわたし、昔、操上さんに手紙を送ったことがあるのです。
あのような写真を撮っている人に、自分のやっている芝居のようなものを観にきてほしいと思って、「操上さんの撮ったロバート・フランクが好きです」と書いて、チラシなどを入れて送ったのです。
でも本人に届くかわからないし、忙しいだろうから、チラシを送ったところでどうにもならないだろうと思っていました。
すると数日後、あろうことか操上さんから連絡があったのです。
そのとき操上さんはコマーシャルの撮影中で、わたしが芝居のようなことをやっていると知り、コマーシャルの声をやってみないかと、オーディションのようなことをしてくれました。
たしか3回くらい声を録音した覚えがあります。
しかしわたしは、そんなことよりも、操上さんに会えたことに興奮し、ロバート・フランクの話ばかりしてました。
操上さんも「そうかあの写真好きか、ありがとう」と言ってくれました。
コマーシャルの声は決まらなかったけれど、あの時会ってくれた操上さんに感動して現在に至ります。
そんなこんなで、一度会ったことのある操上さんですが、インタビュー当日は、緊張と恥ずかしさで、そのことを話せず、初めて会うようなフリをしてました。
すみません。
それにしても操上さんの話は本当に面白かった。
このような人だから、あのような写真が撮れるのかと思うエピソードがたくさん詰まっていたのです。
(戌井昭人・記)
「生まれたのは?」
「北海道の富良野、扇山というところで、いまは富良野市南町と変わってますけど」
「では、富良野での記憶からお願いします」
「雪の中で転げまわって走ってました。あと親父が入院してて、四歳くらいの頃かな、背中に何か背負わされて、雪の中、病院に届け物をしたのを覚えてる」
「とにかく雪ですね」
「はい。あとは親父にひっぱたかれたとかかな」
「なにか悪さをして?」
「悪さというか手に余ったんでしょうね」
「子供の頃は、やんちゃだった?」
「そうですね。馬が好きで、馬によく乗ってました。あとはスキーです。親父の作ってくれたスキーで滑ってました」
「手作りスキー」
「板屋の木を蒸して曲げて。でも重いんですよ」
「当時スキー場は?」
「そこは後に、国体とかワールドカップをやるスキー場になるけど、その頃はリフトもなく自分の脚で登って滑ってました。でも一気に下に滑るとまた登らなくちゃならないから、途中まで滑って、また登って、新雪の中をドーンと降りる一発スキーです。最後に親父と兄貴とオニギリを食べてね」
「夏は、どんなことをしてました?」
「夏は馬です。4歳か3歳の時かな、裏に牧場があって、朝5時半ぐらいに行って馬に乗ったら、いきなり空襲が来たんだ。グラマン飛行機、弾がパラパラ落ちてきて、馬から飛び降りて伏せた。家に逃げようとしたけど、また飛行機が来る。とにかく音が凄かった。それで昼ご飯を食べてたら、またやって来た。町は燃えて、兄貴は自転車に乗って町に親戚の様子を見にいったんです。そしたらまた飛んで来た。でも、うちの親族は無事だった」
「1日3回も爆撃」
「そうです。それが印象的ですね」
「恐怖はありましたか?」
「恐怖はあまりなくて、『おう、なんだ? なんだこれは』って感じで、とにかく逃げるしかない。それで伏せてると、ロケット弾が一キロか二キロ先に落ちて、音と地響きが凄くてね。って、いきなり戦争の話で申し訳ないです」
「では馬の方に話を戻しましょう」
「とにかく小さい頃から馬に乗ってました。牧場の中を走りまわるんです。ウエスタン映画でインディアンが裸馬に乗って走りまわってるのあるじゃないですか、あれを観て、俺もあれくらいならできそうだと思ってね。それで裸馬で立ち乗りの練習したり」
「裸馬ですか」
「そうです。裸馬じゃないと立ち乗りはできないんですよ。それでスピードが上がってくると、リズムが安定するので、そこで、ひょいと立ち上がる」
「もう曲芸師ですよね」
「でね、足が滑ってきて、もうヤバイと思ったら首に抱きつくんです。それも間に合わないと思ったら飛ぶんです」
「飛ぶ!」
「後ろに飛ぶと蹴られるんですけど」
「じゃあ横に」
「そうです。でも子供ですから意外と大丈夫なんですよ。いつも怪我してましたけど」
「裸馬の立ち乗りは流行ってたんですか?」
「いや、誰もやってない。あと、暴れ馬とかは俺が調教してたから、俺の言うことは聞くんです。まあ、それでも牧童ではなくて、うちは農業だったから」
「馬は、農業で働いてもらってた」
「そうです。あの頃はトラクターもなく、馬に引いてもらって田んぼを起こしてたんです。冬になると、馬で丸太を町に運んだり」
「ばんえい競馬みたいですね」
「後で話そうと思ってたけど、僕は、ばんえい競馬で稼いでたことがる」
「え? ギャンブルじゃなくて騎手の方ですか?」
「そうです」
ばんえい競馬、すぐにでも訊きたいけれど、まずは小学生の頃から。
「どのような小学生でしたか?」
「本を読んでるとか、そんな暇はなくて、家の手伝い、馬の面倒」
「もちろん朝からですよね」
「そうです。学校に行く前、家のまわりとか庭を掃除して、帰ってきたら、また家の手伝い。みんなは学校が終わったら野球とかやってたけど、俺は経験ない。長い間親父が具合悪かったんだけど、今度は、おふくろが看病疲れで倒れてしまって。おふくろはもうひどかった。脊髄カリエスで、結核ですよ。体に穴を開けて膿を出さなくちゃならない。だから俺は、学校から帰ってきたら、おふくろの下の世話して、膿も取って、とにかくそんな風に、やることがたくさんあった」
「遊ぶ暇もない」
「でも、その間に独楽を作って遊んだり兄貴とキャッチボール。独楽を当てて戦わせるんで。いかに丈夫な独楽を作るかとか。子供の頃は、どんなに忙しくても遊んでました」
「兄弟は?」
「男兄弟が6人で女が1人」
「操上さんは何番目ですか?」
「2番目、男ばかりで親も大変だったんだろうな」
「みんなで家の手伝いを」
「そうです。小さい弟が大きくなってきたら、いろいろやらせて、廊下拭きとか、庭の掃除。でもね、庭っていっても半端なく広いですから」
「北海道ですからね」
それでは中学に上がりましょう。
「中学一年の時、おふくろが死んだんです。失望感、絶望感もあったけど、同時にホッとしたのもある」
「どうして?」
「ずっと世話してたけど、どうせ助からないというのがわかってた。病院でも治る見込みがなかったから、家にいたわけだし。それでね、おふくろのお墓は、『北の国から』の舞台になった麓郷って高台の地域にあって、その時、ちょうど8月15日で、稲穂もやや黄ばんで、お墓の所から富良野の盆地を見下ろしたら、『うわぁ、おふくろはココから一歩も出ないで死んじゃったんだ』って思ったら急に悲しさがこみあげた。でも同時に『俺はココから出る決心しないとダメだ、ココで一生を終わるわけにはいかない』って思った」
「風景と気持ちが鮮明な記憶ですね」
「稲穂が黄色く輝く、黄金の盆地みたいで美しくてさ。『でも、この美しさに騙されてちゃいけないぞ』って」
「それから出ることに」
「いや、弟がまだ小さくて、俺は働かなくちゃならない。うちは開拓の一族で、わりと広い農家だったから、季節労働者が常時泊まってて、忙しい時は20人くらいいたんです。で、俺の下の弟からは大学に行ってるんですけど、学校には行かせてやらなくてはと、俺と兄貴と親父で学費を払ってた」
富良野を出ようと思った操上さんでしたが、まずは家の仕事があった。
「稲刈りも何も機械じゃなくて手作業だったから、それを朝から、夜の9時くらいまでやってた。しかし都会の奴らはこんなことやってねえぞ、許せねえなぁって思ってましたよ」
「でも、富良野を出ていこうって気持ちはずっとあったんですよね」
「ありましたけど、覚悟は決まってない」
「中学を卒業してからは?」
「僕は高校に行ってない、家には余裕がなかった。弟は高校に、大学にと行かせるけど」
「じゃあ操上さんは、すぐに家で働き出すんですね」
「そうです。それで20歳前後で、ばんえいに」
「ばんえい競馬だ」
「でも、今のばんえい競馬はプロがやってるでしょう。当時はローカルですから。普通の競馬もそうでした」
「レースはどんな感じで行われていたんですか?」
「行きたい所でレースがある時に行くんです。でも、トラックで馬を移動する余裕はないから、馬で行くんです。夕方に『行ってきます』って家を出て、朝にレース場に着く」
「夜中まるまる移動して、朝にレース場へ?」
「そうです。それで、朝着いたら馬を休ませて」
「それからレースに挑む」
「そうです」
「賞金を目指して」
「はい。あと、勝つとフラッグを貰えるんです。それを馬にくくりつけて、ゆうゆうと帰るんですよ。馬鹿みたいだけど、それが唯一の楽しみだった」
「ばんえい競馬は、いつまでやってたんですか?」
「写真学校に行こうと決める歳までやってました」
「それまで写真は?」
「うちにあった小さなカメラで、ちょっと撮ったりはしてたけど、特別興味があったわけではないんです」
「じゃあ、ばんえいの方が上ですね」
「そうです。馬を育てることが大好きだった」
「本格的な騎手を目指したりは?」
「うちは、お爺さんが騎手で、地方競馬で北海道中をまわってたんです。だから、親父がいつもこぼしていた。お爺さんは若い時、道楽で競馬でまわってたって。たまに近くに戻ってきたら『勝ったぞぉ』ってお土産を買ってきたけど、またすぐどこかに行ってしまうと、そんな話を聞いてたんで。だから本格的に騎手になりたいという気持ちもあったけど、それより家のことをやらなくてはという使命感があった。でも、ばんえい競馬なら、家の仕事をやりながらでもできる。それに小遣い稼ぎにはよかった。現金が入るしね」
「なるほど」
「でもお金よりも勝つという面白さ、興奮があった」
「勝負事の楽しみ」
「そうだね」
操上和美 1936年北海道生まれ 写真家。1981年小林麻美写真集『裸婦』で 第十二回講談社出版文化賞受賞。他に、ADC賞、ACC賞等多数受賞。主な写真集に『陽と骨』『SADAO』『KAZUMI KURIGAMI PHOTOGRAHS – CRUSH』『POSSESION Yasuyuki Shuto』『新生 市川新之助』『NORTHERN -北の風景-』など
戌井昭人 1971年東京生まれ。作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』