ばんえい競馬で賞金稼ぎをしていた操上さん、いったいどのようにして、カメラの道に入っていたのか。
「オートバイを買って北海道中を走っていたんですよ。その時、『やっぱりココから出たい、あの盆地にいても駄目だ』って思えてきた。でも出るにしても自分には教養がない、教育を受けてない、高校も出てないのに、どうやって職業に就くのか? そんな風に思っていた時、親戚の写真館で『LIFE』とかの写真雑誌を見たんです。そこでロバート・キャパのノルマンディを見たんだ。『凄い、コレは何だ!』って衝撃を受けました。それで戦争写真だったら旅もできるし、トレーニングすればできるかもしれないと思って、日大に通っていた弟に、これから写真を勉強するにはどういった学校がいいか調べてもらったんです。そうしたら東京総合写真専門学校という重盛弘淹氏が作ったばかりの学校があって、そこが良いらしいと。それで手続きをしたら入れることになって、そこからは早かった」
「何歳の時ですか?」
「24歳。4月の入学式に間にあうように夜汽車に乗って、函館で青函連絡船に乗ったんだけど、海が時化てて、三等だから畳で滑るんです。だから畳に爪立てたりしてたけど、こりゃ駄目だと思って甲板に行ったんだ。そしたら真っ暗な海で雪が降っていた。津軽海峡冬景色だね。で、船が着いたら、皆が走りはじめた。どうして走るんだ? って思ったけど、俺はゆうゆうと出て行ったんだ。そしたらみんな汽車の席を取ってたのね。だから俺はずっと立ちっぱなし」
「東京まで」
「そう。一晩かかりましたよ。だから俺、電車が凄く嫌いになっちゃった」
「東京はどこに住んだんですか?」
「最初は弟のところです。世田谷の代田橋。浄水所の裏に大きな屋敷があって、その離れの一角に住んでいた」
「東京の生活はどうでした?」
「北海道とは100パーセント違ったけど、自分は順応性はあるというか」
「学校はどうでした?」
「まわりは天才ばかりだった。その学校には、もうプロで活躍してる人もいた。AP通信の人とか、何かの雑誌でやってる人とか。あと、篠山紀信がまだ日大生だったけど勉強しに来ていた」
「そこにいきなり」
「だから学校では、技術とかを習った記憶はあまりなくて、どちらかというと写真理論、ロジカルなことだった。それが良かったけど。生徒は50人くらいで、先生は『この中から一人だけ写真家になれればいい』とはっきり言っていた」
「操上さんは、どんな生徒だったんですか?」
「他の生徒は高級なカメラを持ってたり、写真に詳しかったり、でも俺は、写真もカメラも知らない。だから『全員天才じゃないかよ』って思ったけど、3、4カ月したら、俺はこいつらには負けないって直感で思えてきた」
「どうして?」
「おれは、絶対にプロになってやるって気持ちでいたから」
「まわりとは心意気が違う」
「そう。それに今まで農業のことや馬のことで培ってきた仕事に対するエネルギーや要領の良さがあった。それまで仕事をしてきたノウハウが、写真や現場でも役に立つと思ったんだ」
「なるほど」
「写真だって、ただ撮ればいいわけじゃない。あの写真に負けたくないとか、あの写真が良いとか、いろいろ勉強して。俺は毎日、『VOGUE』や『Harper’s BAZAAR』といったあらゆる雑誌を見て、最終的に写真を見ただけで、誰が撮ったかわかるようになりました。そこに写真家の生理感や癖が出るんです」
操上さんは加速するように写真を自分に引き寄せていきます。
「とにかく自分は遅れているから、ものすごい勢いで吸収しないと駄目だと思ったんだ。それに良いカメラとかそういうのじゃない。むしろカメラなんてどうだって良いだろうって思ってた。写真が良ければ良いと」
「学校には何年いたんですか?」
「2年間。2年生で夜間に切り替えて、昼間は写真家の手伝いをしたり」
「どういう写真家に惹かれてたんですか」
「当時、パッと惹かれたのはアーヴィング・ペンとロバート・フランクです。ウィリアム・クラインの『New York』とかは、まあ良かったけど、あまり惹かれなかった。やっぱりロバート・フランクが離れられないというか、一番好きだった」
「ロバート・フランクに魅かれたのは、どのようなところ?」
「シリアスだけど優しい。本当は目が冷徹なんだけど、写真が『どうじゃ!』って感じではなくてね。状況の見分け方、評論の仕方が良い」
「写真集は『The Americans』?」
「そう。『The Americans』しか、その時は見てなかったけど、アレはいまだに僕のバイブルです。アーヴィング・ペンは職人として凄いと思った。ライティングとかポーズの付け方、撮るという根性が一番良く見えた」
「卒業後の進路は?」
「学校の推薦で、ライトパブリシティという、オリンピックのポスターとかを作ったところを受けに行くんです」
「ライトパブリシティって凄い会社ですよね」
「それも篠山紀信と2人で受けに行ったんだ」
「その2人も、いま考えると凄い2人ですが」
「オリンピックのポスターを作った早崎治さんが面接でね、『悪いな、今回は1人しか取れないんだよ』って言われて、ああ、これはもうシノ(篠山紀信)だなと思った。シノはもう仕事をしてましたから。ADと組んで企業のポスター作ったり。テクニックもあるし、落研だから喋りも達者。でもシノとは仲良くて夜な夜な遊んでたんだ。お寺の息子で、都会っ子で、どう逆立ちしたって、シノには勝てないと思った」
「それで、篠山さんがライトパブリシティへ」
「そう。そうしたら副校長で、『コマーシャルフォト』を作った玉田顕一郎さんに、『雑誌に行ってみるか?』と言われて、朝日新聞がやっていた『住まいと暮らしの画報』っていう、生活雑誌ですね、衣食住全部やる、そこに入ったんです。でも入ってみたら、編集者が東大卒だのなんだの、そんな連中ばかりだった。それでも『クリちゃん』って可愛がってもらえて、編集会議にも出してもらって、アイデアが通ったら撮っていいからと、どんどんアイデアを出した。それで撮ってきては自分で組んでね。だからファションも料理もドキュメントも、ヘリコプター撮影もやったりしてね、だいぶ仕事もできるようになった。でも、いつも編集長と喧嘩になるんだよ」
「どんなことで?」
「お前の着てるものが良くないとか」
「え?」
「ここは会社なんだから白いシャツ着てこいって言われるわけ、まわりはネクタイしてるからさ」
「操上さんはどんな格好だったんですか?」
「俺はピンクのシャツとか」
「あらら」
「まあ、それはいいんだけど、編集のやり方でも合わなくてね。当時は乱暴だからさ、『殴るぞ』『窓から投げるぞ』なんて言われたら、こっちも『おお、やってみろ』って、でも八カ月でもう駄目だと思って辞めることを決断した。それが11月の末だったの。そうしたら局長が『いま辞めたらボーナスを貰えない。もう少し我慢してボーナス貰ってから辞めなさい』と。優しいんですよ。でも俺は、『男が一旦辞めるって言ったのに、ボーナス貰うために辞めないなんて、そんなみっともないことできません』って言ったんです。そしたら、『頑固だな!だったら辞めろ』って怒られて、結局ボーナスは貰わずに辞めました。それで玉田先生のところに行って、これこれこういう理由で辞めましたと話したら、『お前、コマーシャルやってみないかって』言われたんです。その時サントリーの『洋酒天国』で活躍していたカメラマンの杉木直也さんという方がいて、独立するからアシスタントをやらないかと。僕は、杉木さんのポートレートが好きだった。それで2年くらいアシスタントやって、27歳で独立しました」
「独立してからはどうでした?」
「いい仕事をするまでは何もしない。武士は食わねど高楊枝じゃないけど、いい仕事が来るまでは余計なことをしたくない。でもお金は無いから、街金から金を借りたんだ。ところがやたら金利がやたら高くて」
「あれま、それで仕事は?」
「でもね、それをやったおかげなのか、仕事で食えるようになったんだ」
「どんな仕事をしたんですか?」
「アシスタントの時に先生の杉木直也さんがコカ・コーラの仕事をやってたの。その時撮影が終わって機材を片付けたら、俺は残って、もう一度ライトや機材を組み直して、俺ならこうする、とかやってたんだ。でもね、コカ・コーラの瓶って、めちゃくちゃ写らないんです」
「そうなんですね」
「それで3晩くらいライティングの研究をしていたら気に入ったものが撮れて、ディレクターに『こんなの撮れたよ』って見せたら、『凄いじゃん。これ、買い上げるよ』って、買ってくれたんだ。そしたら、その頃杉木さんのレップ(広告媒体の仲介業)をやっていた人に『私が写真の仕事を取ってくるから、決まったらギャラの30パーセントを頂戴』と言われて、『もちろん』って答えたの。で、その人が仕事を取ってきてくれるようになって、とりあえず食えるようになったんだ。で、ある時バーで飲んでたらコカ・コーラの担当の人と会って、『写真良かったよ』という話になった。『でも良いったってさ、ギャラも安いしなかなか大変だよ』って言ったら、『ちゃんと払ってるじゃない』って言われて。実際にその金額を教えてくれたんです。そうしたら、僕が聞かされていた金額の倍だった」
「仕事を取ってきた人から聞かされていた額の?」
「そう、倍だった。例えば100万円だったら、その人からは『50万円で受けた』と言われていて、そこから30パーセントくださいよ、と」
「ひどいですね」
「それで頭にきて、そいつと決別したんだ。それで、世の中ヤバイなって思って、それ以来、俺はレップなしでやってきたんです」
「自分で営業を」
「いや、俺は営業嫌いだからしないんです。それより、いかに名前を売るかってことで」
「どのようにして?」
「雑誌とかに『撮影・操上和美』って出るじゃない。それに命掛けてた。だから、なんでもやりました。テーブルクロスから刺繍から、とにかくブツ撮りが好きだったから」
「そこから絶え間なく仕事を」
「絶え間もありましたよ」
絶え間があったと言いつつ、現在も停滞することなく走っている操上和美さん。裸馬に立っていたというくらいだから、決して頭でっかちにならず、感覚を信じ、すべての表現に肉体がついてきている感じがして、そこが絶大に信じられるところなのだった。
やはり、あのロバート・フランクの写真も、操上さんだから撮れたのだろう。
操上さん、これからも、まだまだ走り続けてください。その背中、憧れつつ眺めています。
操上和美 1936年北海道生まれ 写真家。1981年小林麻美写真集『裸婦』で 第十二回講談社出版文化賞受賞。他に、ADC賞、ACC賞等多数受賞。主な写真集に『陽と骨』『SADAO』『KAZUMI KURIGAMI PHOTOGRAHS – CRUSH』『POSSESION Yasuyuki Shuto』『新生 市川新之助』『NORTHERN -北の風景-』など
戌井昭人 1971年東京生まれ。作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』