文=戌井昭人
写真=浅田政志
ヘアメイク=白石義人
スタイリング=渡辺慎也
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高校時代はどうだったのでしょうか?
「入学式に部活紹介がありました。そこで、散々バク転をする先輩方を見たんです。男子新体操でした。バク転バク転宙返り~」
「衝撃ですね」
「先輩たちもみんな高校から始めたって言ってて、『すげ~』と。ジャッキー・チェンになれると思って、ものすごい数の男子が詰め掛けました」
「男子は、思うことが皆同じ」
「そう。でも、そこから淘汰され、最後は七人くらいになってました。で、最初の4月は練習が五時までと決まっていたんですけど、そのうちに夜までできるようになって、そうしたら『じゃあ、今日からだ』と先輩が言って、(新体操の)棍棒やロープを出してきたんです。自分は器械体操も新体操も知らなくて」
「ジャッキー・チェンだと思っていたのに、ちょっと違った」
「でも、気づけば、棍棒投げて、ロープ投げて、いつの間にか3年間びっしりやってました」
「バク転は?」
「夏休みくらいにはできるようになってました。でも、秋の新人戦の前に練習してたら、頭から落ちて、それで新人戦は出られませんでした」
「あれま、残念です」
「怪我して試合に出られない野球選手の気持ちもわかりました、それで冬から、また練習です」
「その後は、怪我もなく?」
「いえ。5月30日、団体戦の練習中でした。誰かをジャンプして飛び越える時、頭から落ちました。それで、その場で休んでいたんです。そしたらマネージャーの女子、イデちゃんがやってきて、ぼくは彼女に『イデちゃん、今日は何日だっけ?』と訊いたらしくて。その後少ししてまた『何日だっけ?』と訊いて、それを何度も繰り返して。『この人ふざけてるんじゃないかな』と思ったみたいで」
「イデちゃんが」
「はい。これはおかしいと思って、先生に言ったら、先生が病院に連れていってくれました。で、僕の記憶は、次の日、朝起きたら病院で、天井の電気から紐が垂れてた、そこから記憶が始まるんです」
「あれれ」
「で、あれ、なんだっけ? いまいつ? なんだ? と考え始めて。ベッドから起き上がったら、うちの母が泣いてました。『あんた覚えてるの?』と。でもなにも覚えてなくて、そういえば頭が痛いとこもあると」
「ちょっと大変な事態です」
「それから、学校には復帰したんですけど、その数日間の記憶がないんです。この話、TEAM NACSのメンバーに話したら。『ああ、だからか』と言われましたけど」
「それでも、部活には復帰した」
「でも復帰した当初は、棍棒投げたら大概落としてました。だから、どこかおかしくなっていたのかもしれません」
「部活はどんな雰囲気だったんですか? 楽しくやってましたか?」
「一個上の先輩方がジャニーズばりのイケメンで、女子ファンがたくさんいました。女子のマネージャーも、ネットの反対側で練習しているバトミントン部も、彼らの練習が見られるからという理由で入った女子もいて」
「とんでもない人気ですね。でも、その方々は卒業して、音尾さんは3年に」
「そうです。それで3年の時の部活紹介で、音尾コールがかかったんです。もっとやって見せろって。でも技が乏しくて、これ以上は何もできないなと。でもトランポリンがあったので、それでできるだけ高く飛んでやろうと思ったけど、単に『ぽよ~ん』と飛んだだけでした。あんなにコールしてもらったのに。あれだけは人生でやり直したい」
高校3年、大学受験になります。
「受験しようなんて気はなかったんです。大学に行く理由がなかったので」
「部活漬けだったし」
「そうです。だから普通に就職しようと思っていましたが、親に話すと、大学には行けと言われました。父は大学に行かず、給料が良いということで警察に入ったのはいいけれど、そのあと出世するにあたって色々苦労したんでしょうね。だから大学は行っておけと。そんな感じだったから、大学はそもそも何をしにいくところなのかわかってなくて。それでいろいろ考えたら、新体操をやっていたから踊りができて、授業中にも歌を歌ったりしていて、国語の朗読では先生に褒められたりしてたので、踊れて、歌えて、台詞が言える、これはミュージカルだと思ったんです。観たこともなかったけど。ミュージカルだ、ミュージカルスターだと。そこで、大学はどこだと探していたら、大阪芸大にミュージカルコースがある、と。それで、オペラをやっている先生に歌を習い、演劇部の先生に演技のことを聞きにいったりしていました。みんなが勉強している時に、ぼくは歌を大熱唱していて。なんだかおかしな人間でした。それに十月くらいまで部活をやってたから、誰よりもスタートが遅かった。大阪芸大、あとは札幌の大学を受けました。受験で初めて大阪に行って、そこで受験生と友達になり、道頓堀を歩いて、『今度は入学式で会おう』と話したり」
「で、合格?」
「はい、大阪芸大に受かって『行きまーす』と親に言ったら、『ダメだ』と」
「え?」
「親は、受かるとは思わなかったから、受けてもいいと言ったんだと」
「あれま」
「まあ、とにかく大阪なんか行かせたら、サポートもできないし、バイトもやって大変だろうと思っていたんでしょう。それで、なんだかんだ諦めて、札幌の北海学園に行くことにしました」
「学部は?」
「経済学部」
「じゃあ、ミュージカルの道が」
「そうは言っても演劇サークルに入りたいと思って、演劇研究会というところに入りました」
その演劇研究会に、のちに、TEAM NACSとなるメンバーがいました。
「部室にリーダーの森崎と僕ともう1人の3人だけでいた時があって、リーダーは空気を良くしようと思ったのか、トランプをして負けた奴は一枚ずつ脱いでいくぞ、と言い出したんです。それでリーダーが負けたらいきなりズボンを脱いだ。先輩流石だなと思いました」
「バク転とか見せる機会はありましたか」
「これがなかなかなかったんですけど、ある時ソフトボールをやっていて、そこでバク転、宙返りをしたら、みんなが『おーっ!』となって。それで児童劇でバク転をする役をもらいました」
「演劇部の活動はどんな感じだったんですか?」
「夏前には、ジャズの部活と一緒に小学校をまわりました。10月には新人の公演を教室でやって、12月は劇場を借りて定期公演」
「それを4年」
「正式には5年間です。で、大学の1年の頃から先輩はプロの劇団にも入っていて、『劇団イナダ組』の公演に出てました。それで2年生の終わりにTEAM NACSを結成して、1年に1回TEAM NACS、あとは劇団イナダ組が2回」
「では、卒業してからは?」
「ラジオの昼のレポーターをやることになって。大泉(洋)は教員免許を取って、ギリギリまで就職の見込みもあると考えていたようですが」
「そもそも音尾さんが目指していたのがミュージカルスターですもんね。でも親御さんはどうだったんですか?」
「うちの親からは、大学を卒業をしてもまだやる気があったら、おまえの好きなことをやれと言われていました」
「なるほど、それで現在に繋がる活動が始まる」
「高校3年の頃、まわりにミュージカルスターになるって言いまくっていたらしくて。後輩にも『劇団四季に入るって言ってましたよね』って言われたり。あと部室の壁にも書いていたみたいで」
ミュージカルではないけど、道は曲げず、芝居の道へ邁進していく音尾さんです。そして、札幌から東京へ。
「そもそもちゃんと役者をやっていきたいという気持ちが強かったし、事務所も北海道だけじゃなく東京の大きな事務所と業務提携して、遂には池袋のサンシャイン劇場でTEAM NACSの公演をやらせてもらえるようになって……それで事務所が用意してくれた東京のマンスリーマンションに住むようになりました」
「じゃあ、東京でやっていくぞ、となったのは?」
「当時東京在住だった妻と結婚して、その時に、自分が住むのは東京だと。それでしっかりやっていこうと思い、東京に部屋を借りました。でも1年くらいは札幌にも借りていたんです。で、ある時久しぶりその札幌の部屋に戻ったら雨漏りしていて。それで、もう何があっても東京でやっていこうという思いになりました」
その後、TEAM NACSや音尾さんの活躍は、皆様もご存知の通り。
インタビューで、音尾さんは、シーンを食っていくような役をやりたいと話しておりましたが、『孤狼の血』の音尾さんを観た時は、本当にぶったまげました。とにかくシーンを食いまくっていました。今後もぜひとも、さらに、ぶったまげるような役を見せてください。
わたしは、音尾さんが演技している時に、蛇のようなヤバい感じの目になるのが好きみたいです。そして今回のインタビューで、音尾さんの穏やかな感じを知ることができ、さらに、あのヤバさとのギャップを楽しめるようになりました。ありがとうございます。今後も追いかけていきます。
音尾琢真 1976年北海道旭川生まれ、演劇ユニットTEAM NACSメンバー。北海学園大学在学中に森崎博之と戸次重幸に誘われ、同期の大泉洋とともに演劇研究会に入部、これがTEAM NACS結成のきっかけとなる。最新出演作は2月公開の映画『七つの会議』(監督・福澤克雄)
戌井昭人 1971年東京生まれ。作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』
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