アメリカン・ニューシネマの時代。
若手人気俳優から個性派の名優へ
1960年代末、『俺たちに明日はない』、『明日に向かって撃て!』、『イージー・ライダー』によって始まった「アメリカン・ニューシネマ(英語ではNew Hollywood、American New Wave)」の潮流。若きアル・パチーノはそのアメリカ映画界の新しいうねりの中心に現れた新人俳優だった。パチーノ主演による『スケアクロウ』、『セルピコ』、『狼たちの午後』という3作品は、1970年代のアメリカ社会をリアルに映し出した、アメリカン・ニューシネマの傑作である。
マーティン・スコセッシより2つ年上のアル・パチーノは、スコセッシと同じイタリア・シチリア移民の息子としてニューヨークに生まれ育った。そして、デ・ニーロと同じくアクターズ・スタジオで演技を学んだ。
イタリア系移民たちはルーツを重んじる。20代の頃からスコセッシはアル・パチーノを知っていたし、幾度か一緒に映画を撮るという話も交わしてきた。スコセッシ、デ・ニーロ、パチーノは、舞台や映画でともに切磋琢磨する仲間であり、イタリア系ニューヨーカーという大きなファミリーの一員だった。
だが、結局これまで、スコセッシ監督作にアル・パチーノが出演する機会は訪れなかった。かつて、スコセッシが監督し、アル・パチーノが芸術家モディリアーニを演じる伝記映画の企画があったが、実現はしなかった。それはパリを舞台にした「狂騒の20年代(The Rolling 20’s)」を生きた芸術家たちの物語だったから、もし製作されていたら、きっとすばらしい映画になったに違いない。
スコセッシはすでにロバート・デ・ニーロという天才を得ていた。一方、アル・パチーノにはシドニー・ルメットがいた。骨太の社会派映画を撮る監督として知られたシドニー・ルメットは、アル・パチーノを主演に、『セルピコ』、『狼たちの午後』といったアメリカン・ニューシネマの傑作を作った。
そのようなわけで、アル・パチーノがスコセッシ作品に出演することはずっとないままだった。
一方、デ・ニーロとパチーノは、1970年代に一度同じ作品に出演している。1974年公開、フランシス・フォード・コッポラ脚本・監督の傑作『ゴッドファーザー PART Ⅱ』である。
シチリアン・マフィアの光と影を、ニューヨークを舞台に、3世代に及ぶ「家族の物語」として描いた三部作サーガの二作目で、デ・ニーロとパチーノは、「父と息子」を演じている。と言っても、2人が直接交わるシーンはない。マフィアの大ボスであるドン・ヴィトー・コルレオーネ(PART Ⅰではマーロン・ブランドがその晩年を演じた)の「若き日の姿」を演じたのがデ・ニーロであり、その未来に三男として生まれるマイケルを演じたのがパチーノだった。若き人気俳優のふたりがひとつの作品の中で「共演」し、見事な調和を見せている。
『ゴッドファーザー』のサーガは、デ・ニーロとパチーノの「映画界での居場所を決定づけた作品」でもある。映画の大成功と高い評価によって、ふたりは、期待の若手俳優から「アメリカを代表するアクター」になったのだ。
その後ふたりは各々、様々なタイプの映画に主演していく。アル・パチーノは『クルージング』、『スカーフェイス』、『シー・オブ・ラブ』、『ディック・トレイシー』、『恋のためらい/フランキーとジョニー』、『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』など次々と。ロバート・デ・ニーロは、『ディア・ハンター』、『レイジング・ブル』、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』、『恋に落ちて』、『アンタッチャブル』、『グッドフェローズ』、『レナードの朝』、『ケープ・フィアー』ほかこちらも多数。
「アメリカを代表するアクター」であるふたりはいつしか「世界的な大物俳優」に成長し、ついに正真正銘、「リアルな共演」を果たす。
1995年公開、マイケル・マン監督の傑作『ヒート』で、デ・ニーロは盗みのプロを、パチーノはLAの警察官をそれぞれ演じ、追われる者・追う者という構図で相まみえる。彼らと同世代のマン監督はクライム・ムービーの名手だが、その特徴のひとつが夜景の描写である。「マイケル・マンと言えば、夜」である。かつて夜のニューヨークをイエローキャブで彷徨ったトラヴィス(デ・ニーロが演じた『タクシードライバー』の主人公)、シチリアン・マフィアの暗い闇の中に生きたマイケル・コルレオーネ(『ゴッドファーザー』三部作でパチーノが演じた)。マン監督は『ヒート』に、暗がりに潜むように生きる人間を演じてきたふたりを招き入れ、それぞれの個性を見事に演出している。
同時代を生きる3人の「アメリカ映画界の巨人」、監督マーティン・スコセッシ、俳優ロバート・デ・ニーロとアル・パチーノ。『アイリッシュマン』は、その3人が一堂に会した最初で(きっと)最後の映画なのである。
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