作家・池澤夏樹と画家・黒田征太郎が戦争と平和を伝える絵本の3作目が生まれた。タイトルは『対馬丸とボーフィン』。1944年8月22日、沖縄から九州に疎開する800人以上の学童を乗せた貨物船「対馬丸」がアメリカの潜水艦「ボーフィン」の魚雷攻撃に遭い撃沈した「対馬丸事件」を題材にした絵本だ。池澤は沖縄とハワイの取材を重ね、それぞれの船の視点から言葉を紡いだ。そして黒田は船の上で、来る日も来る日も波を描いていった。
ILLUSTRATION:KURODA SEITARO TEXT:SAITO TAKUMI
対馬丸事件
1941年12月8日、日本がハワイのパールハーバーを奇襲し太平洋戦争が始まった。1944年7月7日にアメリカがサイパン島を占領すると、次は沖縄だと、日本政府は沖縄県民に疎開命令を出した。子供たちは「ヤマト(本土)へ行くこと ができる」とはしゃいでいた。
対馬丸は丈夫な軍艦ではなく、建造から30年経った古い貨物船だった。1944年8月21日18時35分、800人以上の学童を含む約1800人を乗せた対馬丸は長崎へ向け出航した。対馬丸が渡った海域は既にアメリカの潜水艦によって17隻が沈められていた危険な海だった。その日は台風が近づいていたため波が高く、二段式の棚にすし詰め状態の子供たちは船酔いに耐えながら夜を過ごした。翌8月22日22時12分頃、対馬丸はアメリカの潜水艦「ボーフィン」の魚雷攻撃に遭い撃沈した。ボーフィンは対馬丸が那覇港に入る前より攻撃対象として追跡していた。軍艦でなく航行速度の遅い対馬丸は格好の標的だった。夜の奇襲。わずか10分足らずで沈没したためほとんどの子供たちは船倉に取り残され、脱出に成功した者も台風の荒波に呑まれた。学童784名を含む1484人が犠牲となった。さらに生存者には日本政府による箝口令がしかれ、遺族でさえも対馬丸に乗った家族の消息を知ることが困難であった。
現在、対馬丸は海底880メー トルに静かに沈んでいる。一方でボーフィンは、パールハーバーのUSSボーフィン潜水艦博物館に戦果を称えるために実物が展示されている。その横には「The Pearl Harbor Avenger パールハーバーの報復者」と書かれた看板が掲げられている。
対馬丸記念館について
沖縄県那覇市に対馬丸事件を伝える「対馬丸記念館」という施設がある。入り口は2階にあり、これはタラップから対馬丸に乗船するようなイメージで設計された。そこから1階の展示室へと下りていく階段は、沈没時に多くの子供たちが眠っていた船倉へと続いているかのようだ。屋上までの高さは約10メートルであり、これは海面から対馬丸の甲板までの高さに等しい。展示室には事件前から事件後までを時系列で表した大型パネルのほか、子供たちの寝床だった狭い船倉棚が再現され、犠牲者の遺品などが展示されている。壁に並ぶ犠牲者の遺影は、全犠牲者のわずか23パーセントにしか満たないという。代表理事を務める髙良政勝は4歳の時、家族11人で対馬丸に乗船し、17歳の姉と自分だけが生き残った。事件の真実を伝える施設として、対馬丸記念館の役割は大きい。今年は事件から80年。慰霊塔である「小桜の塔」の建立70年。そして対馬丸記念館の開館20年という節目の年である。
今年2月、池澤夏樹は黒田征太郎との絵本『ヤギと少年、洞窟の中へ』(小社刊)が沖縄タイムス出版文化賞児童部門賞を受賞した際、授賞式の前に施設を訪れた。池澤は「対馬丸をテーマにした絵本には一つの体験談ではなく、様々な角度が必要だと考えています」と語り、その後ハワイへと足を向けた。記念館には「あなたはいきています。つしま丸」 と手書きの言葉の添えられた黒田の対馬丸の絵が額装され飾られている。 昨年11月、黒田は対馬丸記念館を訪れて、「つしま丸児童合唱団」の子供たちと一緒に絵を描いていたのだ。 黒田がこの絵本を描くきっかけとなった大切な時間だった。1944年8月22日に疎開先へ向かった子供たちが、合唱団の子供たちの姿に重なった。そして黒田はこの後に南極を旅していった。船の中で、荒波に身を任せて何度も波を描き続けた。
絵本を作り続ける理由
池澤と黒田の絵本共作はこれで3作目となる。これまでに、広島に現存する被爆建物陸軍被服支廠を舞台とした『旅のネコと神社のクスノキ』(第28回日本絵本賞最終候補作品)、沖縄のガマ(洞窟)で命を落としたひめゆり学徒隊の悲しみを伝える『ヤギと少年、洞窟の中へ』 がある。2022年より毎年一冊ずつ丁寧に作り上げていく。二人はそれぞれの絵本の刊行記念トークイベントでこのように繰り返し伝える。
「終戦は一度もない。人類はずっと戦争を続けている」と黒田征太郎は投げかけ、「だからこそ私たちは平和を製造し続けなければならない」と池澤夏樹は答える。
本シリーズにおける二人の絵本制作の軸は決まっている。
黒田は実際に目で見たその瞬間の感情を紙に投影させていく。広島陸軍被服支廠の窓に無数の視線を感じ、壁の赤煉瓦に紙を擦り付け、その上に目を描く。沖縄のガマに入り懐中電灯を消しじっと身を潜め、その闇を捉えようとボールペンでひたすら黒く塗りつぶす。
池澤は「戦争を伝える絵本はどうしても体験談が多い。そうではない客観的な物語が必要だ」と考え、『旅のネコと神社のクスノキ』のクスノキとネコ、『ヤギと少年、洞窟の中へ』のひめゆり女学生と少年のように、戦争の当事者と戦争を知らない無垢な者との対話で物語を紡いだ。
しかし本作『対馬丸とボーフィン』では日本とアメリカをそれぞれ「対馬丸」と「ボーフィン」に重ね、明確な対立構造の上で対話が展開することになる。
もし二隻の船が話すことができたなら—— 対話がいかに重要かを本作に託すように、池澤は双方の視点に立ち、対馬丸とボーフィンの言葉を紡いだ。そこに浮かび上がった「戦争とは何か」という問いが再び波にさらわれないよう、黒田は渾身の力で対馬丸に乗る子供たちの姿を描いていく。