馬目弘仁 消えることのない灯

日本を代表するアルパインクライマー、馬目弘仁。50歳を過ぎてなおヒマラヤの巨壁に挑み続け、メルー峰(6330m)シャークスフィンに第二登、キャシャール峰(6767m)南ピラーの初登攀で登山界最高の栄誉「ピオレドール賞」を受賞するなど30年以上にわたって数々の功績を残してきた。馬目のあくなき探求心の源を探るべく話を訊いた。

写真=黒田誠
文=成瀬洋平
協力=THE NORTH FACE

山への憧れ

1969年、福島県いわき市に生まれ、海沿いの町で育った馬目は釣りに熱中する少年だった。渓流釣りがしたくて高校では山岳部に入部。その選択が人生を大きく決定づけることとなる。

「部室に転がっていた『ヤマケイ(山と渓谷)』を見ていたらヒマラヤ登山やクライミングの記事が載っていて、『これだ!』と思いました。高校の山岳部では冬山もロッククライミングも禁止でしたが、その頃からいずれ世界中の高い山に行ってみたいと思うようになり、大学入学と同時に社会人山岳会に入って本格的にクライミングを始めました。大学の友人たちがみんな個性的で、それぞれ海外を一人で旅する計画を立てて盛り上がっていたんです。カヤックでカナダのユーコン川を下るとか、南米を放浪してアコンカグアに登って、パイネまで行くとか、オーストラリアのナラボー平原をバイクで横断するとか。僕は山登りが好きだったから一人でヨーロッパアルプスに行く計画を立て、みんな同じ年に休学して世界中に散らばりました。とにかく20歳になる前に何か成し遂げようと思ったんです。

最初はヨーロッパアルプスのいくつかの山をソロで登るつもりでした。シャモニのロジエールキャンプ場をベースにしてアルジェンティエール氷河に入り、トリオレ北壁とかを登ろうと。プランという山の北壁は当初の計画通りフリーソロで登れたのですが、クレバスのある氷河帯を越えるには一人では危ないと感じて、それ以降は同じキャンプ場に滞在していた日本人クライマーと共に登るようになりました」

新たな刺激を求めて

信州大学農学部林学科を卒業した馬目は、埼玉県で就職。4年半後には農学部のキャンパスのあった長野県伊那市へ移住し、森林組合に就職した。以来、クライミング技術を活かした特殊伐採の林業に携わるようになる。その頃、クライミング雑誌『Run Out』を発行する。

「僕は発行人ではありましたが、中心は編集長の佐々木一之さんでした。『岩と雪』が休刊した頃、自分たちでクライマーのインタビューを中心としたフリーマガジンを作ろうと意気投合したんです。様々なクライマーの話を直接聞けるのはすごく刺激がありました。そう、自分に刺激を与えたかったというのが創刊の大きな理由です。不定期ではありましたが、『Run Out』は3〜4年くらい続けました。

当時はフリークライミングもエイドクライミングも、アイスクライミングも散々やってきました。大体2〜3年くらい集中して取り組むと要領がつかめてくる。様々なジャンルのクライミングを経験して、30代半ばくらいの時にやっぱりアルパインクライミングが一番好きだと実感しました。性に合っていたのかもしれません。ちょうどその頃、“Giri-Giri-Boys”と呼ばれる黄金世代のクライマーたちが現れました。一緒に登るようになったのですが、彼らから受けた影響は非常に大きいです。彼らがいたおかげで今の自分があると思っています」

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クライマーとして、家庭人として